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> > 秩父銘仙/新啓織物(あらけいおりもの)

2011年3月2日




選・文:田中敦子 撮影:SAJI(EPLP)

オンラインマガジン-日本各地の職人を訪ね、Made in Japanのものづくりの現場をご紹介しています。

京友禅などのやわらかな染めの着物が憧れだった時代、大らかな柄を多色づかいで織り上げた銘仙は、気楽に華やかさを楽しめるお洒落着として、爆発的なヒットとなった。時は大正から昭和初期。日本人と着物の、最後の蜜月を彩った反物といえるだろう。だからか、銘仙には懐かしさがつきまとう。けれど、時を経た今、新時代の銘仙が新たな花を咲かせようとしている。

養蚕から始まった銘仙の里・秩父へ

今はもう数件しか残っていない秩父の養蚕農家。しかし「いろどり」と呼ばれる埼玉県生まれの繭が新たに注目されている。新啓織物でも着尺、帯、ショールなどに取り入れている。

銘仙の染め見本と、織り上がりの反物。かつて秩父で盛んに織られていたのは、こうした鮮やかな色の大柄な銘仙だった。

左右とも同じ染めをほどこした経糸だが、緯糸の色を変えると、こんなに印象がかわる。管に巻かれているのが、それぞれの緯糸の色。

 「明日は全国的に寒波襲来。都内も積雪のおそれあり」。
 天気予報をチェックして、少々不安になった。東京から特急で一時間半弱とはいえ、山深い秩父に行くからだ。
 幸い、翌朝の東京は、ところどころに白い名残があるていど。池袋発のレッドアロー号も通常運行していた。
 池袋発の西武秩父線は、武甲山から産出される石灰石(セメントの原料。秩父セメントで知られる)の輸送と観光開発のために敷かれた路線だ。途中の飯能駅でスイッチバックすると、景色がにわかに山深くなる。山の木立には白く雪が積もっている。
 やがて、列車は滞りなく秩父駅に滑り込んだ。
 その昔、山に閉ざされた秩父は交通の便が悪く、稲作にも不向きな寒村だった。しかし、養蚕が盛んになった江戸時代には、秩父の土地が桑の栽培に適していたこともあり、こぞって蚕(かいこ)を育て始め、繭(まゆ)や絹糸の生産に力を入れるようになった。

 日本三大曳山(ひきやま)祭りのひとつである秩父夜祭りが、別名お蚕祭りと呼ばれるのも、養蚕が盛んな土地柄を映している。年に一度、江戸に繭や生糸を売り込むための市が立ち、これがやがて夜祭りに発展。明治時代、外貨獲得のために絹糸が盛んに出荷されたことから、秩父は繁栄期を迎え、その財力で祭りの屋台も豪華になっていったという。
 ところで、養蚕が盛んな土地では、商品にならないくず繭を自家用に織るならいがある。だから秩父は、明治以前も棹旗(さおばた)用の白生地や裏地などの産地として知られていた。地元では、太織(ふとり)と呼ばれていたが、江戸時代の風俗文献『守貞漫稿』には、「今世絹を多く産出するは加賀と秩父なり。衣服の裡(うら)には秩父絹を専用す」とあり、秩父で盛んに裏地用の生地が織られていたことも伝えている。
「銘仙と呼ばれる平織りの着物地が織られるようになったのは、明治以降のようです」とは、駅まで迎えにきてくださった新井教央さん。秩父銘仙の織元・新啓織物の二代目だ。
「ただ、最初は縞模様など地味なものだったんです」
 が、明治の終わりに、坂本宗太郎という人物が編み出した“ほぐし捺染(なっせん)”と呼ばれる画期的な新技法により、女学生やカフェの女給さんのトレードマークともいえる、大柄で多色使いの模様銘仙が可能になった。
「経糸(たていと)に捺染して、緯糸(よこいと)で変化をつけます。同じ経糸でも、緯糸の色が変わると、印象が変わりますし、経糸の柄が、緯糸の色と重なり合い、深みある色調になるんです。」
 そこが銘仙の面白さだと新井さんはいう。
 はて、いったいどんな技法なのだろう。

経糸に型染めする、銘仙だけの技法“ほぐし捺染

仮織りの機に向かう新井教央さん。これにより、ほぐし捺染が可能になったのだ。

よく見ると、反物ではなく糸の集合体。細い糸を密に織るから、軽い着心地になる。

こうして型を送って染めていくのが捺染技法。大きさはさまざまだが、一人で型付けする場合の長さの限度は90㎝だという。

型の幅いっぱいのゴム篦(べら)で染料をしごいていく。

捺染台の長さ分を捺染したらローラーに巻きつけ、新たな白場を染めていく。白生地を間に挟み、染料が移らないようにしている。

 ほぐし捺染は、まず経糸を仮織りするところから始まるという。捺染とは、ステンシルみたいに型紙で染料を置く技法のことだ。普通は生地を染めるが、銘仙は、糸に捺染する。だから、仮織りで疑似的に反物をつくるというわけだ。
 仮織りは織元の仕事で、新啓織物にも、古式ゆかしい仮織りの機がある。
「これは緯糸を打ち込まないでゆるゆると曲線を描くように織り込んでいくんです。こうしないと、型染めするときに、ずれてしまいますから」と教央さんは作業をしながら説明してくれる。
 そんなにずれるものなのかしら、と思ったりしたけれど、捺染の現場で合点がいった。

 まっ白なモノが7mほどある細長い板の上に延べられている。もちろん反物ではなく、仮織りした経糸だ。しかし、近づいて見ても、目を凝らさないと糸の集合体だということに気づかないほど細い糸だ。
「これで経糸が1300本くらい。多くなると1600本あるね」
 とは、田中捺染加工場の国本実さん。今、秩父銘仙の捺染加工を手掛けるのは、ここだけになってしまった。
「昭和30年代には70軒くらいあったんですけどねえ」
 銘仙のような織物は、一反二反をゆっくりじっくり織るのではない。力織機(りきしょっき)と呼ばれる機械で織るから、ある程度のロットをこなさないと、逆に効率が悪い。
 だいたい10反は織るとすると、一反約12mで120m。この長さを延々型付け捺染していくのだ。
「生地なら板に糊付けして固定しますよね。だからずれませんけど、銘仙の場合は糸ですし、長さがあるので、糊付けできないんです。両端からひっぱるテンションだけで張ってます」
 そこに型を送って染めていくのだ。約7m型付けしたら、染料が乾かないうちにローラーに巻き付けていく。色が移らないように間に白い木綿を巻き込んでいく。こうすることで、織り上がったときに裏表のない柄になる。作業効率もいい。
「型も大きいし、簡単に見えますけど、型裏に染料がついてしまってますから、経糸に正確に型を置くのは一発勝負。熟練が必要です」
 そして、「銘仙は、どんな柄でも、なんの色でもできてしまうんですけど、マス目のような、糸が動くと形がずれて様にならないものはあまり向きません。図案を考えるときは、多少経糸がずれてもさまになるよう工夫する必要があるんです」
 この技法を考えた宗太郎さん、すごいなあ。
「ええそうですね。完成させるまでにずいぶん苦労したようです」
 色数を増やす場合は、それだけ型を重ねることになる。昔の銘仙は多色使いしたものが多い。
「手間はかかるけれど、アラが目立ちにくいというところもありますね」
 艶やかさが喜ばれたその裏側には、実はそんな事情もあったのだった。

人と機械が手を携え織り上げる秩父銘仙

切れた経糸を結ぶヤスさん。細い糸を使う秩父銘仙のこの作業を70歳をすぎたヤスさんは眼鏡なしでこなしている。

織機の様子をチェックしている園恵さん。

緯糸に使う糸は、この機械で糸繰りする。どの機械も時代もので、メンテナンスが欠かせない。「工場に入るときは、いつも工具といっしょです」と園恵さん。

緯糸を管に巻く機械。かたこと動いて愛おしい。

緯糸を送る杼(ひ)の内部には、なにやらほわほわとしたものが。「猫の毛なんです。動力で織る場合、杼はかなり早いスビードで左右に動くから、その弾みで糸が出過ぎてしまうんです。毛があることで、糸の飛び出しが抑えられます。昔の人の知恵ですね」と教央さん。

 がっしゃん、がっしゃん、がっしゃん・・・。
 木造の工場の内部では、半木製の力織機(りきしょっき)が無心に動き、反物を織り出していた。機械ではあるが、動きが柔らかく、織り音にも味がある。機(はた)にかかっているのは、ほぐし捺染した経糸。仮織りの糸をほぐし取りながら、本織りが進められている。だから、ほぐし織りと呼ばれる。
 新啓織物は、教央さんの父である啓一さんが興した織元だ。この日、啓一さんは外の仕事で不在だったが、教央さんが「新啓織物きっての織り姫」と誇る、母のヤスさんが機を前に作業をしていた。

「大正時代に改良された機で、もともとは足踏みだったんですけど、それを動力に変えています。すごく簡単にできているんですよ。だから、いろいろな太さの糸を織ることができるんです」
 一般には、糸の太さに合わせて機がある。けれど、このロートルな機は、糸の張り具合と糸の太さなどを判断して、柔軟に対応できるという。
「そのかわり、目盛りがないんです」
 だから、織り手の勘がものをいう。ヤスさんの耳は、そんな織機(しょっき)の声に敏感で、経糸の切れや絣のずれ、また部品の調子が悪くなりかけているのを、事前に察知できるという。
「私も隣町の機屋(はたや)の生まれだもん。ずっとこの音を聞いてますから」と笑う。
 新啓織物にある織機は、戦後まもないものとか。もう代わりはきかない。だから直し直し使っているという。
「父がよくいうんです。織機は飯を食わないから、油がごちそうなんだ、って。だから必ず、動かす前は、9機ある機をひとまわり回って油をさして。油をさすと、ネジの緩んでいるところなどもわかりますよね」
 アフターケアならぬ、ビフォアケア。半木製ということもあり、湿気や乾燥によっての変化があるから、手を抜けない。
 貴重なパーツは、廃品になった機を解体する際に集めておき、必要となれば、その中から合うものを探すという。まるでクラシックカーのようだ。
「いい織機なんです。バネの感じがやわらかくて、薄い絹の織物も、段にならずにきれいに織れるんです。この機なくして秩父銘仙の風合いは生まれないと思います」
 教央さんの妻・園恵さんもヤスさんから教わりながら、織りの仕事を身につけている。
 ふと不思議な機械があることに気づく。緯糸を巻き付ける管に糸が巻かれ、巻き終わると、からりと落ちて、また新たな管が送られて、巻き付けが始まる。からくり仕掛けみたいな機械だ。ハイテクの現代から見れば、初歩的な装置かもしれないが、こうした機械にはほどよい遊びがあり、人の手に近い。
 ほぐし捺染にしても、力織機にしても、この管巻きのからくりだって、当時は目覚ましい量産のアイデアで、最先端技術だったろう。秩父の家々から機音が響き、がちゃんと織ったら一万円という少々下びたネーミングの〝がちゃまん〟景気を生み出したのも、この技法があったからこそ。
「ただ、もともと上手の織物を産していた土地ではなかったから、売れるほどに手間を省いたり、質を下げたりしてしまったんですね。そのうち、人絹(じんけん)も使うようになって」
 銘仙=弱い、という悪評が残ってしまったのは、このあたりに原因があったという。
「名誉挽回が、まだできてないような気がします」
 少し前のアンティーク着物ブームで人気を博した銘仙が、品質を落した時代のもの(秩父以外の産地も同様)が多かったこともある。
「このあたりも含めて、今の時代の銘仙を、私たちは考えなければいけないと思っています」

ベテランの技を背景に、若い二人が動き出す

ふんわりとした真綿糸を緯糸に使った反物。ラベルには、父母の名前が入っている。若い二人はまだ裏方。両親へのリスペクトの心も伝わってくる。

同じ柄だが、右だと昔ながらの印象。左は園恵さんのセンスで現代的な淡い色に。緯糸に真綿糸を使っている。

反物の織り余りを使って小物を製作。ブックカバーは、きものの幅をそのまま使い、八掛けのように裏地を色合わせ。ひとつひとつていねいに縫製している。

 教央さんが15年のサラリーマン生活に見切りをつけ、家業に入ったのは6年前。
「そのときはね、もろ手をあげて万歳っていう気分ではなかったんですよ」とヤスさんは心情を吐露する。
 お昼に用意してくださった秩父名産のうどんと地元野菜の天ぷらをいただきながら、聴くこちらは、思わず、なぜ?と聞き返してしまう。
「秩父銘仙はもう眠っているような状態でしたし、私たち夫婦も、もう歳ですから、静かに終わらせようと思ってました」
 それは、田中捺染加工所の国本さんも同じだったという。
 銘仙景気は遠い昔の夢。産業としては、もう当時の面影がないほど小さい規模になっていたし、主に夜具や座布団カバーなどを織っている状態だった。
「ただ、父は秩父の中では後発の機屋でしたから、とにかくこの仕事が好きで、続けようと思ってたみたいです」
 教央さんは、家の仕事を継ぐつもりでテキスタイルの専門学校に通った。
「でも、すぐに家業に入るのもなんだし、デザインも企画も営業もできるような大きなテキスタイル会社に入りたいと思って」
 そして就職した会社では、インドや中国での商品開発に関わり、それが面白くて、ついつい15年勤めてしまったという。
 同僚だった園恵さんと結婚し、4人の子どもにも恵まれた。
「家業を継ごうと考えたのは、インドでの仕事からでした」
 工房ではミシンを踏んだり、機を織ったりする姿がある。実家の家業もそれに近いのに、企画を担当する自分は、モノづくりの何もわからなくて、物足りない気持ちになったという。
「それで家にもどって仕事したいって思ったんです。仕事を教わりたい父母が元気なうちにって」
 園恵さんも、いつかは戻るのだろうと思っていたから、ためらいはなかった。子どもたちにとっても、秩父は自然に恵まれたよい環境だった。そして戻って6年が過ぎた。
「ようやく新しいことができるようになったのは、ここ2年くらいでしょうか」
 まずは基本的な仕事を身につけなければならない。それだけで最低4年はかかる。また、新しい図案を反物にするまで1年はかかる。気の長い仕事なのだ。
「やりたいことはたくさんあります。でも、追いつかないのが現実です」
 そういいながらも、確実に二人の力で秩父銘仙は新しい表情を見せ始めている。

 昼食後、ショールームになっている座敷へと移動する。
 そして、そこにあるさまざまな商品を拝見する。これまでの銘仙とは趣きの異なる反物がすっきりと並んでいる。
「昔は、複雑な柄や多色使いで勝負していたでしょ。それはそれで面白かったんです。大正末から昭和初期の景気がよかったころは全国から優れた図案の売り込みがあったんです。だから、品質はいまいちでも、柄は面白いものが多いんです」
 ただ、当時と同じものを織っても、「あら、うちの箪笥にあるわ」とか「懐かしい」と言われてしまう。復刻もいいけれど、着るものである以上は、時代を映したものでありたい。
「経糸と緯糸の微妙な色使いを工夫したいですね。経糸を紺、緯糸を茶にすることで、光の加減で紺に見えたり、茶に見えたり。染めのきものと違う銘仙のよさは、この玉虫効果にもあると思うんですよ」
 この効果を出すために、何度も試作を重ねる。
「あとね、着心地です」と教央さんは声に力を込める。
「柄や色も大切ですけど、長く着ていただくのなら、着心地や風合いがいいものでないと」
 最近は、緯糸に真綿糸を使ったりもしている。軽く繊細な銘仙の光沢にやわらぎが加わり、穏やかな表情だ。また、園恵さんは、自分が着てみたいと思う色柄を考える。絶妙のコンビネーションだ。
「派手な色柄は、着こなしが難しいと思うんです。だから、淡い中間色の単色使いがいいんじゃないかと思って」
 柄は昔ながらなのに、色を変えることで、まったく違う印象になる。うん、この銘仙なら着てみたい。
「銘仙は、着物の中では気軽なものですけれど、洋服に比べれば、やはり高価ですし、長く大切に着てもらえる。その気持ちに答えられるよいものをつくりたいと思っています」
「まだまだ父や母に比べれば、ぜんぜん至らなくて」、と二人はいうけれど、二人が戻ってきたことで、ベテランたちは奮起している。頑張っている若者を、できるだけ支えなければ、と、そんな気持ちになっているのだ。
「アジアを中心にさまざまな染織技術を見てきましたけど、ほぐし捺染の技術は、他にはないんです。この面白さと魅力を伝えていけたらと思うんです」
 分業ゆえ、将来に課題は残るが、「それも自分たちなりに解決していこうと考えています」と教央さん、園恵さんの決意は固い。一歩一歩、未来に向けて。これからまたどう変わるのか、21世紀の秩父銘仙を見守っていこう。

  • 新啓織物(あらけいおりもの)

    昭和45年、新井啓一さんが勤め先の織元より独立して創業。明治時代後期に秩父で開発されたほぐし捺染(ほぐし織り)の技法を継承、長男の教央さん、園恵さんが6年前に家業に加わり、新時代の秩父銘仙を提案している。

  • 左より、新井教央さん、ヤスさん、園恵さん。

  • 工場では、着物の反物のほか、帯、ストール、また座布団カバーなども織っている。

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