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		<title>紙工房たかの＆和紙作家・田村智美さんを訪ねて</title>
		<link>http://www.thecovernippon.jp/ogawawashi_interview/</link>
		<comments>http://www.thecovernippon.jp/ogawawashi_interview/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 30 Aug 2010 08:43:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[今月の贈り物]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.thecovernippon.jp/ogawawashi_interview/</guid>
		<description><![CDATA[　池袋から東武東上線急行に乗って1時間と15分ほど。東京から目と鼻の先の距離に、こんな景色があったのだ。
　外秩父の穏やかな山並みと町の中央を流れる槻川の豊かな水量。川や水路からは爽やかな水の音が絶えることなく聞こえてくる。実り始めた田んぼには、かかしがお目見えしだした。とんぼがすいーっと宙を切る。
　人の営みと自然が近しくあるこの里山に、昔ながらの手漉き和紙が息づいている。1200年ともいわれる長い歴史を歩んできた小川和紙。素材と水と地の利に恵まれたこの土地は、江戸時代、江戸の紙需要を支える産地として大きく発展したという。
紆余曲折の末、
伝統に立ち返った小川和紙
　ちゃっば、ちゃば、ちゃば。
　水の音を立てながら、鷹野禎三さんが簀桁をがっしと掴んで前後に揺らす。
　天井に掛けられた竹竿とヒモで結ばれた簀桁を、竹のばねを利用して、やわらかく前後に傾かせ、紙漉きをしているのだ。この漉き方は〝流し漉き〟と呼ばれるもの。
　紙は中国で生まれ、2世紀頃に、筆や墨などとともに、その技術が日本に伝えられた。が、当初は、紙になる繊維を沈殿させる〝溜め漉き〟のみの製作だった。しかし、平安時代になると、紙の繊維を結びつけるネリの利用が始まる。細かく砕いた和紙の原料とともに水の中にネリを加えて撹拌して漉く〝流し漉き〟、なんとこれは日本で開発された新技法だったのだ。現在の紙漉きは、〝溜め漉き〟と〝流し漉き〟がともに行なわれている。
　鷹野さんがネリに使うトロロアオイの根を漉した液を見せてくれた。
「トロロアオイはオクラの仲間だから、花も似てるし、粘りがあるのも似ているね」
　バケツの中には蒟蒻や葛餅を思わせる色の液体。柄杓で汲んでみると、とろんと重い。指でさわれば、ぬるりと粘るけれど、手離れがいい。
「ネリはね、粘りがあるんだけど、長続きしないの。だから、漉いたばかり紙をどんどん重ねていってもくっつかないの」
　つまり、紙の繊維をからませる役割を終えたら、すみやかに存在を消すという理想的な性質の天然素材に出会い、紙漉き技術は格段に高まった。溜め漉きだと、一枚漉いては布を挟まなければいけなかったから、流し漉きは実に革新的で、日本各地に紙の産地があるのも、流し漉きの恩恵が大きい。そして、数ある紙の産地の中でも、小川の和紙は、かなり古い歴史をもつ。
　奈良時代にはすでに紙を漉いていたと、正倉院の文書にも記録があるほどだ。江戸時代に入ると、お江戸の紙需要を支える産地として大いに栄えた。点在する村落で漉かれた和紙が小川町に集まり、問屋業が栄え、和紙の中心地となったのだ。しかし、明治維新以降、産地としての勢いは衰えていく。そんな小川町に再び活気を甦らせたのは、清らかな和紙のイメージとは重なりにくい、戦争だった。
「太平洋戦争中、爆弾の火薬の湿気を守る砲兵紙とか風船爆弾用の紙とかね、軍事目的の和紙を漉くことで、和紙にかかわる人がまた増えたんですよ」
　東京に近い土地ゆえでもあったろう。また、それほどに和紙は、日本人にとって身近な素材であり、今のパルプ製紙の紙とは比べものにならないくらい強靭な素材だという証しでもあると思う。
　そして、戦後は機械漉きが進行した小川和紙。
「私も最初は手漉き和紙だったんだけど、一時は機械製紙に切り替えたんですよ」
　しかし、製紙による排水の社会問題化と、伝統的な産業の火が消えゆくことに危機感がつのる時期が重なり、鷹野さんは、再び手漉き和紙に戻る。きりりと引き締まり、毛羽立ちにくい手漉き楮紙である、小川和紙独特の〝細川紙〟が、重要無形文化財に指定された時期でもあった。
「当時100軒ほどあった製紙業の中で、手漉き和紙は80軒ほどだったかな。手漉き和紙ってね、昔からやっている人にはいいイメージがないんですよ。辛い、大変、ということばかりが大きくてね」
　高野さんも、最初は手漉きの仕事が好きではなかったという。それでも戻ってきたのは、手漉き和紙そのものに魅力があればこそだろう。
「今はね、手漉き和紙をしている人は、12〜13人かな」
　中心は、細川紙の技術者協会。鷹野さんはもちろんそのメンバーのひとりで副理事長、小川和紙の工業協同組合の理事長でもある。
小学生のころから
紙漉きが気になっていた
「へえ、楽しくなかったんだ。こんなに楽しいのに」
　小川和紙の歴史を話してくださる鷹野さんの傍らにいた田村智美さんが、つぶやく。田村さんは、鷹野さんの工房である「紙工房たかの」での仕事をこなしつつ、個性的な手漉き和紙の作品を制作している和紙作家だ。彼女の作品は、〝透かし〟技法を取り入れた繊細で夢あふれるモチーフが特徴で、用途うんぬんより、その文様の美しさに心奪われる。東京芸術大学卒、と聞けば、きっと誰もが、なるほどだからこそのアート性、と納得するかもしれないが、いや、そんな簡単に語れぬほど、田村さんの和紙への思いは深く強い。
　田村さんは群馬県出身。
「小学生のころから、将来は和紙をやる、って漠然と思っていたんですよね。理由はわからないんですけど」
　宿題やお稽古ごとをしながら、時折、和紙のふわふわっとした感じを考えていたことを、今でも覚えているという。
　そんな紙好きの田村さんは絵を描くのも得意で、大学進学は美術系と心を決める。
「和紙をやりたいという気持ちはその当時もありました。でも、弟子入りみたいなことまでは思いつかなくて」
　デザインを学び、メーカーのデザイン部へ就職。
「仕事を始めてみて、あ、やっぱりやりたいこととは違うなって気づいたんです」
　意を決して参加したのが、和紙のシンポジウム。和紙職人や和紙作家の人の話を聞き、「でも聞いただけじゃなにも始まらないって、思い切って滋賀の紙漉の人に、和紙をやりたいって言ったんです」。
　一度見学しにいらっしゃい、と快く受け入れられた田村さん。そこから、和紙の産地巡りが始まった。出張に行けば、その周辺に和紙の産地を探しもした。
「小川町は、たまたま池袋に住むことになって、東武東上線で一本で行けたので、よく通いました」
　鷹野さんとは、その当時からの顔見知りだったという。
「あれこれ受け入れ先も探しました。でも、なかなか見つからなくて」
　そんな中、土佐和紙の産地である高知で、「土佐和紙工芸村」の職員として受け入れてくれるというチャンスに恵まれた。田村さんは29歳にして会社を辞め、和紙の世界に足を踏み入れたのだった。
ただ和紙をやりたい、
紙に埋もれていたい
　高知には7年ほどいて、製作三昧の日々を過ごした。
「食べ物もおいしいし、仲間もいるし、楽しかったですよ」
　でも、ずっとここにはいられないな、と思ったときに、小川町の鷹野さんから、「こないか」という誘いがあった。
「巡り合わせですよねえ」と田村さんは笑う。
「自分の作品も作りたいんです」という田村さんの条件を、鷹野さんが受け入れてくれたことも大きかった。
「といっても、工房が終わる17時以降か休日が製作タイムで、就業時間中は伝統的な手漉き和紙を漉いています」
　手漉き和紙の仕事は、楮や三椏など、樹木の靱皮（じんぴ）繊維を煮て、水の中でていねいにゴミを取り除き、細かく砕いて、そうしてやっと紙漉きができる。根気のいる作業を経た上で、田村さんはチャーミングな文様をデザインし、型紙を彫って紗の布に張り、透かし模様を生み出している。職人仕事をきっちりとしながら作家的な和紙を生み出していればこそ、田村さんの作品には、和紙らしい繊維の和らぎが息づき、見る人、手に取る人の心に安らぎをもたらすのだ。
「でき上がった和紙を選別しているだけでも、自分でつくったものなのに、わあ、なにこれ、きれいって感動してしまうんです」
　ほんとうに和紙が好きなのだなあ。
「だからね、和紙で自己表現する作家になろうという思いは全然ないんです。もう、ただ紙をやりたい、紙に埋もれていたいんですよね」
　そして、さらに。
「この仕事、私の好きなことが全部入っているんです。和紙で、絵も入っていて。自然のものから自分で一からつくれるし、手作業だし」
　小川町の自然を体で感じながら自然をモチーフにした作品をカタチにすることもまた、田村さんの喜びだ。
「おじいさん（田村さんは親しみを込めて鷹野さんをこう呼ぶのだ）は、将来的には私に工房をまかせたいみたいなこと、時々おっしゃるんですけど、私は職人にはなり切れません。作品をつくっているほうが、私らしくいられるから」
　それでも、せっかく小川町の和紙づくりに関わっている以上は、役に立ちたい、と考える。田村さんの作品は、用途を超えたアピール力がある。どう使うかは、使い手しだい。とにかく手にとれば、和紙という素材の魅力、パルプにはない強靭にして優雅なその美しさに触れることができる。
　経巻、公文書、書道紙、版画紙、色紙。障子、襖、掛け軸。紙衣、紙布。暮らしの中に、当たり前に手漉きの紙があった時代、実用品、消耗品でありながら美しくあり続けていた紙の尊さ。
「本当は、まっさらな紙がいちばん美しいと思うんですよ」
　それがわかっている田村さんだからこそ、どんなに凝った作品でも、和紙の素直な魅力が損なわれていないのだろう。和紙は木の美しさ、自然の賜物。
「無理してこっち向け、ってしてもできないもの。だから偶然性にまかせます。木や水や自然に感謝して、謙虚な気持ちで紙と向き合いたいといつも思っています」
　体を駆使して紙と向き合えばこその言葉が、きらめいた。
【紙工房たかの】
重要無形文化財である細川紙技術保存者の鷹野禎三さんの工房。鷹野さんは1934年生まれ。手漉き和紙からスタートし、機械製紙を経た後、再び伝統的な手漉き和紙に戻り、小川和紙を代表する職人として知られている。工房では、細川紙のほか、版画用紙、賞状用紙、工芸紙など、さまざまな用途の和紙を漉く。
【田村智美】
1993年に東京芸術大学大学院卒業後、メーカーのパッケージデザイナーを経て、高知県に渡り手漉き和紙の修業を開始。「透かし文様和紙」の技法を研究・発展させ、数々の展覧会にて発表。2005年より埼玉・小川町の「紙工房たかの」にて紙漉きに従事。2007年4月、ポーラ・ミュージアム・アネックスにて、陶芸家・川尻潤氏とコラボレーション展。

左から田村智美さん、鷹野禎三さん、小山妙子さん。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　池袋から東武東上線急行に乗って1時間と15分ほど。東京から目と鼻の先の距離に、こんな景色があったのだ。<br />
　外秩父の穏やかな山並みと町の中央を流れる槻川の豊かな水量。川や水路からは爽やかな水の音が絶えることなく聞こえてくる。実り始めた田んぼには、かかしがお目見えしだした。とんぼがすいーっと宙を切る。<br />
　人の営みと自然が近しくあるこの里山に、昔ながらの手漉き和紙が息づいている。1200年ともいわれる長い歴史を歩んできた小川和紙。素材と水と地の利に恵まれたこの土地は、江戸時代、江戸の紙需要を支える産地として大きく発展したという。</p>
<h3>紆余曲折の末、<br />
伝統に立ち返った小川和紙</h3>
<p>　ちゃっば、ちゃば、ちゃば。<br />
　水の音を立てながら、鷹野禎三さんが簀桁をがっしと掴んで前後に揺らす。<br />
　天井に掛けられた竹竿とヒモで結ばれた簀桁を、竹のばねを利用して、やわらかく前後に傾かせ、紙漉きをしているのだ。この漉き方は〝流し漉き〟と呼ばれるもの。<br />
　紙は中国で生まれ、2世紀頃に、筆や墨などとともに、その技術が日本に伝えられた。が、当初は、紙になる繊維を沈殿させる〝溜め漉き〟のみの製作だった。しかし、平安時代になると、紙の繊維を結びつけるネリの利用が始まる。細かく砕いた和紙の原料とともに水の中にネリを加えて撹拌して漉く〝流し漉き〟、なんとこれは日本で開発された新技法だったのだ。現在の紙漉きは、〝溜め漉き〟と〝流し漉き〟がともに行なわれている。<br />
　鷹野さんがネリに使うトロロアオイの根を漉した液を見せてくれた。<br />
「トロロアオイはオクラの仲間だから、花も似てるし、粘りがあるのも似ているね」<br />
　バケツの中には蒟蒻や葛餅を思わせる色の液体。柄杓で汲んでみると、とろんと重い。指でさわれば、ぬるりと粘るけれど、手離れがいい。<br />
「ネリはね、粘りがあるんだけど、長続きしないの。だから、漉いたばかり紙をどんどん重ねていってもくっつかないの」<br />
　つまり、紙の繊維をからませる役割を終えたら、すみやかに存在を消すという理想的な性質の天然素材に出会い、紙漉き技術は格段に高まった。溜め漉きだと、一枚漉いては布を挟まなければいけなかったから、流し漉きは実に革新的で、日本各地に紙の産地があるのも、流し漉きの恩恵が大きい。そして、数ある紙の産地の中でも、小川の和紙は、かなり古い歴史をもつ。<br />
　奈良時代にはすでに紙を漉いていたと、正倉院の文書にも記録があるほどだ。江戸時代に入ると、お江戸の紙需要を支える産地として大いに栄えた。点在する村落で漉かれた和紙が小川町に集まり、問屋業が栄え、和紙の中心地となったのだ。しかし、明治維新以降、産地としての勢いは衰えていく。そんな小川町に再び活気を甦らせたのは、清らかな和紙のイメージとは重なりにくい、戦争だった。<br />
「太平洋戦争中、爆弾の火薬の湿気を守る砲兵紙とか風船爆弾用の紙とかね、軍事目的の和紙を漉くことで、和紙にかかわる人がまた増えたんですよ」<br />
　東京に近い土地ゆえでもあったろう。また、それほどに和紙は、日本人にとって身近な素材であり、今のパルプ製紙の紙とは比べものにならないくらい強靭な素材だという証しでもあると思う。<br />
　そして、戦後は機械漉きが進行した小川和紙。<br />
「私も最初は手漉き和紙だったんだけど、一時は機械製紙に切り替えたんですよ」<br />
　しかし、製紙による排水の社会問題化と、伝統的な産業の火が消えゆくことに危機感がつのる時期が重なり、鷹野さんは、再び手漉き和紙に戻る。きりりと引き締まり、毛羽立ちにくい手漉き楮紙である、小川和紙独特の〝細川紙〟が、重要無形文化財に指定された時期でもあった。<br />
「当時100軒ほどあった製紙業の中で、手漉き和紙は80軒ほどだったかな。手漉き和紙ってね、昔からやっている人にはいいイメージがないんですよ。辛い、大変、ということばかりが大きくてね」<br />
　高野さんも、最初は手漉きの仕事が好きではなかったという。それでも戻ってきたのは、手漉き和紙そのものに魅力があればこそだろう。<br />
「今はね、手漉き和紙をしている人は、12〜13人かな」<br />
　中心は、細川紙の技術者協会。鷹野さんはもちろんそのメンバーのひとりで副理事長、小川和紙の工業協同組合の理事長でもある。</p>
<h3>小学生のころから<br />
紙漉きが気になっていた</h3>
<p>「へえ、楽しくなかったんだ。こんなに楽しいのに」<br />
　小川和紙の歴史を話してくださる鷹野さんの傍らにいた田村智美さんが、つぶやく。田村さんは、鷹野さんの工房である「紙工房たかの」での仕事をこなしつつ、個性的な手漉き和紙の作品を制作している和紙作家だ。彼女の作品は、〝透かし〟技法を取り入れた繊細で夢あふれるモチーフが特徴で、用途うんぬんより、その文様の美しさに心奪われる。東京芸術大学卒、と聞けば、きっと誰もが、なるほどだからこそのアート性、と納得するかもしれないが、いや、そんな簡単に語れぬほど、田村さんの和紙への思いは深く強い。<br />
　田村さんは群馬県出身。<br />
「小学生のころから、将来は和紙をやる、って漠然と思っていたんですよね。理由はわからないんですけど」<br />
　宿題やお稽古ごとをしながら、時折、和紙のふわふわっとした感じを考えていたことを、今でも覚えているという。<br />
　そんな紙好きの田村さんは絵を描くのも得意で、大学進学は美術系と心を決める。<br />
「和紙をやりたいという気持ちはその当時もありました。でも、弟子入りみたいなことまでは思いつかなくて」<br />
　デザインを学び、メーカーのデザイン部へ就職。<br />
「仕事を始めてみて、あ、やっぱりやりたいこととは違うなって気づいたんです」<br />
　意を決して参加したのが、和紙のシンポジウム。和紙職人や和紙作家の人の話を聞き、「でも聞いただけじゃなにも始まらないって、思い切って滋賀の紙漉の人に、和紙をやりたいって言ったんです」。<br />
　一度見学しにいらっしゃい、と快く受け入れられた田村さん。そこから、和紙の産地巡りが始まった。出張に行けば、その周辺に和紙の産地を探しもした。<br />
「小川町は、たまたま池袋に住むことになって、東武東上線で一本で行けたので、よく通いました」<br />
　鷹野さんとは、その当時からの顔見知りだったという。<br />
「あれこれ受け入れ先も探しました。でも、なかなか見つからなくて」<br />
　そんな中、土佐和紙の産地である高知で、「土佐和紙工芸村」の職員として受け入れてくれるというチャンスに恵まれた。田村さんは29歳にして会社を辞め、和紙の世界に足を踏み入れたのだった。</p>
<h3>ただ和紙をやりたい、<br />
紙に埋もれていたい</h3>
<p>　高知には7年ほどいて、製作三昧の日々を過ごした。<br />
「食べ物もおいしいし、仲間もいるし、楽しかったですよ」<br />
　でも、ずっとここにはいられないな、と思ったときに、小川町の鷹野さんから、「こないか」という誘いがあった。<br />
「巡り合わせですよねえ」と田村さんは笑う。<br />
「自分の作品も作りたいんです」という田村さんの条件を、鷹野さんが受け入れてくれたことも大きかった。<br />
「といっても、工房が終わる17時以降か休日が製作タイムで、就業時間中は伝統的な手漉き和紙を漉いています」<br />
　手漉き和紙の仕事は、楮や三椏など、樹木の靱皮（じんぴ）繊維を煮て、水の中でていねいにゴミを取り除き、細かく砕いて、そうしてやっと紙漉きができる。根気のいる作業を経た上で、田村さんはチャーミングな文様をデザインし、型紙を彫って紗の布に張り、透かし模様を生み出している。職人仕事をきっちりとしながら作家的な和紙を生み出していればこそ、田村さんの作品には、和紙らしい繊維の和らぎが息づき、見る人、手に取る人の心に安らぎをもたらすのだ。<br />
「でき上がった和紙を選別しているだけでも、自分でつくったものなのに、わあ、なにこれ、きれいって感動してしまうんです」<br />
　ほんとうに和紙が好きなのだなあ。<br />
「だからね、和紙で自己表現する作家になろうという思いは全然ないんです。もう、ただ紙をやりたい、紙に埋もれていたいんですよね」<br />
　そして、さらに。<br />
「この仕事、私の好きなことが全部入っているんです。和紙で、絵も入っていて。自然のものから自分で一からつくれるし、手作業だし」<br />
　小川町の自然を体で感じながら自然をモチーフにした作品をカタチにすることもまた、田村さんの喜びだ。<br />
「おじいさん（田村さんは親しみを込めて鷹野さんをこう呼ぶのだ）は、将来的には私に工房をまかせたいみたいなこと、時々おっしゃるんですけど、私は職人にはなり切れません。作品をつくっているほうが、私らしくいられるから」<br />
　それでも、せっかく小川町の和紙づくりに関わっている以上は、役に立ちたい、と考える。田村さんの作品は、用途を超えたアピール力がある。どう使うかは、使い手しだい。とにかく手にとれば、和紙という素材の魅力、パルプにはない強靭にして優雅なその美しさに触れることができる。<br />
　経巻、公文書、書道紙、版画紙、色紙。障子、襖、掛け軸。紙衣、紙布。暮らしの中に、当たり前に手漉きの紙があった時代、実用品、消耗品でありながら美しくあり続けていた紙の尊さ。<br />
「本当は、まっさらな紙がいちばん美しいと思うんですよ」<br />
　それがわかっている田村さんだからこそ、どんなに凝った作品でも、和紙の素直な魅力が損なわれていないのだろう。和紙は木の美しさ、自然の賜物。<br />
「無理してこっち向け、ってしてもできないもの。だから偶然性にまかせます。木や水や自然に感謝して、謙虚な気持ちで紙と向き合いたいといつも思っています」<br />
　体を駆使して紙と向き合えばこその言葉が、きらめいた。</p>
<p>【紙工房たかの】<br />
重要無形文化財である細川紙技術保存者の鷹野禎三さんの工房。鷹野さんは1934年生まれ。手漉き和紙からスタートし、機械製紙を経た後、再び伝統的な手漉き和紙に戻り、小川和紙を代表する職人として知られている。工房では、細川紙のほか、版画用紙、賞状用紙、工芸紙など、さまざまな用途の和紙を漉く。</p>
<p>【田村智美】<br />
1993年に東京芸術大学大学院卒業後、メーカーのパッケージデザイナーを経て、高知県に渡り手漉き和紙の修業を開始。「透かし文様和紙」の技法を研究・発展させ、数々の展覧会にて発表。2005年より埼玉・小川町の「紙工房たかの」にて紙漉きに従事。2007年4月、ポーラ・ミュージアム・アネックスにて、陶芸家・川尻潤氏とコラボレーション展。</p>
<p><img class="alignnone size-medium wp-image-1792" title="12" src="http://www.thecovernippon.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/08/profile.jpg" alt="12" width="210" height="157" /><br />
左から田村智美さん、鷹野禎三さん、小山妙子さん。</p>
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		</item>
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		<title>陶芸家　鈴木稔さんを訪ねて　</title>
		<link>http://www.thecovernippon.jp/mashikoyaki_interview/</link>
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		<pubDate>Fri, 30 Jul 2010 01:33:05 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[今月の贈り物]]></category>

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		<description><![CDATA[　青々とした田畑や野山が広がる道を車で走る。
　陶器店が連なり、陶器市の開催でも知られる益子の中心地、城内坂の賑わいを抜ければ、あとは濃厚な緑の風景。訪れるたび、この地のやわらぎに心も体も息をつく。
　益子の陶芸家・鈴木稔さんの工房は、そんな益子の自然に抱かれた奥深い場所にひっそりとある。車から降りると、草いきれが匂い立つ。敷地内には、住まい、工房、ガス窯のある収蔵庫などが建ち、周囲に木々が生い茂る。鳥のさえずりがこだまする。
　鈴木さんの作品には、都内のとあるギャラリーで出合った。益子焼特有の柿色をしたオーバル型の鉢で、幾何学文様が洒落ていた。益子らしさと、らしくなさ。そのバランスの妙に心魅かれた。その柄は型を使ったものだという。器もまた、轆轤ではなく型取りしたもの。私の中では、型というのは簡便なもの、プロダクト的なもの、というイメージがあったのだが、どうも匂いが違う。今回の訪問で、その理由がわかった。
大学の陶芸サークルから始まった作陶
　益子焼でまず思い浮かぶのは、民藝作家の濱田庄司の作品だろう。昭和初期に誕生した堂々と大らかで、素朴でありながら品格や知性を感じさせる作風は、江戸の末ごろから雑器をつくり続けてきた益子焼に大きな刺激を与えた。今では益子焼の古典みたいな存在になっているけれど、当時は斬新な存在だったのだ。思うに濱田は、益子に二つの種を蒔いた人。一粒は、民藝的な焼き物を根付かせた。もう一粒は、益子を作家志向のつくり手が力を発揮できる土地にした。今も、濱田同様、よそからやってきて築窯する作家が後を絶たない。鈴木さんもまた、そんな作家のひとりだ。
　工房の棚には、さまざまな石膏型が並んでいる。これらで器をかたどっているのだ。焼き物といえば轆轤と思いがちだが、鈴木さんはあえて違う道を選んだ。
「濱田風の益子焼はみんなやってるでしょ。それはほかの人にまかせて、自分は益子の土を使って、違う表現をしたいという気持ちが最初からありましたね」
　学生時代の陶芸サークルが作陶歴のスタートである鈴木さんだが、今日に至るまで紆余曲折あった。学生時代にすでにプロ的に作品を売ることができる実力だったこともあり、就職など微塵も考える事なく陶芸家の道を選んだ。卒業後は、バイクで日本全国の窯場を巡り、24歳のとき、益子に移り住んだ。
「益子にきた当初は、益子の土や釉薬は眼中になかったんです。というのも、大きな製陶所用の量産品しか見てなかったから。でも、昔の益子焼の土や釉薬を見るとすごくいい」
　そうした本来の上質な原料は、益子で暮らしていれば自然と目に入る。
「自分が気づかなかっただけで、実はとてもいい釉薬と土がある土地だということがだんだん分かってきたんです。土は工事現場なんかからも掘れるし、そういうのを片っ端からとってきて、焼いてみたら、それがすごくよかったんです」
　当時の鈴木さんは、益子の陶芸教室で教えながら、製作をしていた。バブルのまっただ中で、つくれば売れる時代だったという。しかし、２８歳のとき、壁に突き当たった。
「このままやっていても、一線の作家にはなれないと」
　修業らしい修業もしていない。そこで、かねてより憧れていた益子の陶芸家・高内秀剛氏に弟子入りすることになる。高内氏は、作風も人柄も豪快で創意に満ち、修業の４年半は陶芸家・鈴木稔の新たな礎となる充実の時間となった。それだけに、影響も大きかった。
「独立後も、高内の弟子、ということがついてまわったし、確かに作品にもその感じがあって、あがいた時期がありました」
割型での製作は自分らしさを追究した結果
　濱田でもなく、高内氏でもない、鈴木稔としての作品。
　その突破口のひとつになったのが、型だった。
「早い時期から、轆轤をやりながら型での製作もしていたんですが、きっかけはありました。この四角い向付なんですけど」と鈴木さんが取り出してきたのは、外はぴしっとした面で、中は指でおさえつけたような柔らかさがある小鉢。
「これがすごくよくて、どうやって作るんだろうと思ったんだけど、教えてくれる人はいないし」
　独学で型を学び、試行錯誤した上で、パーツを組み合わせる割型にたどり着いたという。欲しい形を粘土でつくり上げて石膏型をとり、いくつかのパーツに分けて板状にした陶土を張り付けて指で内側を整え、型に入った状態で合体させて乾かす。作業の実際を見て、型のイメージがひっくりがえった。量産の技法であるはずなのに、なんと手間のかかること。石膏型づくりに手間がかかることもあり、同じ型はいくつも作らないから、いくつかの型を繰り回しながら、型から外せるまでの乾燥を待ちつつ、何種類かを平行して製作してゆく。つまり、ばんばん型取りするような量産体制の対極にある作業なのだ。轆轤のほうがよっぽど早い。
「ええ、轆轤のほうがよっぽどたくさんできますよ。でも、数つくることにあんまり興味がないんです。だから原型も轆轤ではつくっていないんです。よくみると丸いものでもゆがみがあるはずです」
　土づくりにも手を掛けている。普通、専門店で扱っているものは、陶土を水の中にいれて不純物を取りのぞく、水簸（すいひ）という工程がほどこされている。しかし、「水簸した土には味がないんです」という鈴木さんは、自分で土を掘り起こし、手作業でゴミや石つぶを取りのぞく。そうすることで、本来の益子焼らしい素朴な土になる。
　文様を型でつけるのも、個性を模索した中で生まれたもの。
「筆での絵つけもけっこう上手なんです（笑）。でも、なにかちがう」
　そこで出合ったのが、素焼きした器体に、型抜きクッキーみたいな紙のパーツを当て、柄を描いていく方法だった。ステンシル的な型で量産するのではない。ひとつひとつ、きっちり線を描き、釉薬一色ごとに、色をつけない部分はロウでマスキングし、焼成を重ねるのだ。量産どころか、なんという手間ひま。
　「ひとつデザインが決まれば、二人の女性スタッフがやってくれますけれどね。彼女たちは手早いですよ」
　線を描きながら、鈴木さんは笑う。とはいえ、手間には変わりない。
「量産という回路が僕の中にはないんですよね。だから、手間がかかった分、価格にのせることもしませんね」
　それでもきっと手にとる人が、違いを感じてくれるはずだと、鈴木さんは考える。
　この型絵の仕事はガス窯を使っているが、実は、鈴木さんの工房敷地内には、３年ほど前に完成した小振りな薪窯もある。ここから生まれる作品が、また味わい深く、料理映えも抜群にいい。
「益子焼では、薪窯で器を焼くときには、灰の影響を受けないよう鞘に入れてガードしているんです。灰がかぶって生まれる釉薬の流れは失敗作になっちゃいますから」
　ところが鈴木さんは、その釉薬の流れこそ、偶然の景色で魅力的だと考える。
「ガス窯の仕上がりは均質なので、窯入れでだいたい作業が終わるんですが、薪窯は、窯のどの位置に置くかで表情が変わるから、そこを考えるのも作業のひとつ。窯を開けるまでが楽しみですよね」
　年に４、５回焼くという薪窯の作品は、毎回が実験で、失敗作も出る。でも、それを上回る面白さ。柿釉、飴釉、黒釉、糠白釉、並白釉、青釉、灰釉。こうした益子独特の釉薬が、端正な器体の上で、さまざまな表情を見せる。どれも益子の衣をまとっていながら個性豊かで、モダン。北欧の焼き物を思わせるところもある。
「２年前にデンマークに行って、そこで製作を経験したことも、作品に影響していると思いますね」
　
　最初に、濱田庄司は益子に二つの種を蒔いた、と書いたけれど、鈴木さんは、この二つの種が新たに結びついた、ハイブリッド種かもしれない。作家を歓迎する開かれたこの土地では、たやすく他の産地の土も手に入るから、ことさら益子焼を意識しないつくり手も多い。けれど最近の益子では、土地の土、釉薬に魅せられ、地の恵みを生かして作品づくりする若手作家も増えている。40代後半の鈴木さんは、年齢といい、作風といい、その旗手たる存在に思える。
　鈴木さんが古い益子焼を取り出してくる。灰色した薄づくりの杯台。
「これ、明治くらいのかな。こんな薄いものもつくっていたんですよ。すごく薄い益子焼をつくる若い作家が益子焼らしくないと思われたりするけれど、実は昔にもあったんです」
　らしい、らしくない、というのは表面的、一面的なことなんだ、とふと気づく。濱田庄司も、英国や沖縄の焼き物に学び、益子の土瓶に魅せられ、益子の土と釉薬を使って彼独特の作品を生み出したのだ。影響を血肉として、新たな作品が生まれていく。それこそが伝統継承の真実で、いつだって伝統は進行形なのだ。そのことを、益子焼の若い人たちは体現している。鈴木さんを始めとする新しいスタイルの作家が増え、昨今彼らはさまざまなムーブメントを益子から発信している。これから先も、また楽しい動きがありそうで、目が離せない。
【鈴木 稔】
1962年、埼玉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。91年より４年半、益子の陶芸家である高内秀剛氏に師事。96年に、益子町芦沼に築窯、独立。益子の土と釉薬を使い、割型による器を中心に製作。個展を中心に活動。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　青々とした田畑や野山が広がる道を車で走る。<br />
　陶器店が連なり、陶器市の開催でも知られる益子の中心地、城内坂の賑わいを抜ければ、あとは濃厚な緑の風景。訪れるたび、この地のやわらぎに心も体も息をつく。<br />
　益子の陶芸家・鈴木稔さんの工房は、そんな益子の自然に抱かれた奥深い場所にひっそりとある。車から降りると、草いきれが匂い立つ。敷地内には、住まい、工房、ガス窯のある収蔵庫などが建ち、周囲に木々が生い茂る。鳥のさえずりがこだまする。<br />
　鈴木さんの作品には、都内のとあるギャラリーで出合った。益子焼特有の柿色をしたオーバル型の鉢で、幾何学文様が洒落ていた。益子らしさと、らしくなさ。そのバランスの妙に心魅かれた。その柄は型を使ったものだという。器もまた、轆轤ではなく型取りしたもの。私の中では、型というのは簡便なもの、プロダクト的なもの、というイメージがあったのだが、どうも匂いが違う。今回の訪問で、その理由がわかった。</p>
<h3>大学の陶芸サークルから始まった作陶</h3>
<p>　益子焼でまず思い浮かぶのは、民藝作家の濱田庄司の作品だろう。昭和初期に誕生した堂々と大らかで、素朴でありながら品格や知性を感じさせる作風は、江戸の末ごろから雑器をつくり続けてきた益子焼に大きな刺激を与えた。今では益子焼の古典みたいな存在になっているけれど、当時は斬新な存在だったのだ。思うに濱田は、益子に二つの種を蒔いた人。一粒は、民藝的な焼き物を根付かせた。もう一粒は、益子を作家志向のつくり手が力を発揮できる土地にした。今も、濱田同様、よそからやってきて築窯する作家が後を絶たない。鈴木さんもまた、そんな作家のひとりだ。<br />
　工房の棚には、さまざまな石膏型が並んでいる。これらで器をかたどっているのだ。焼き物といえば轆轤と思いがちだが、鈴木さんはあえて違う道を選んだ。<br />
「濱田風の益子焼はみんなやってるでしょ。それはほかの人にまかせて、自分は益子の土を使って、違う表現をしたいという気持ちが最初からありましたね」<br />
　学生時代の陶芸サークルが作陶歴のスタートである鈴木さんだが、今日に至るまで紆余曲折あった。学生時代にすでにプロ的に作品を売ることができる実力だったこともあり、就職など微塵も考える事なく陶芸家の道を選んだ。卒業後は、バイクで日本全国の窯場を巡り、24歳のとき、益子に移り住んだ。<br />
「益子にきた当初は、益子の土や釉薬は眼中になかったんです。というのも、大きな製陶所用の量産品しか見てなかったから。でも、昔の益子焼の土や釉薬を見るとすごくいい」<br />
　そうした本来の上質な原料は、益子で暮らしていれば自然と目に入る。<br />
「自分が気づかなかっただけで、実はとてもいい釉薬と土がある土地だということがだんだん分かってきたんです。土は工事現場なんかからも掘れるし、そういうのを片っ端からとってきて、焼いてみたら、それがすごくよかったんです」<br />
　当時の鈴木さんは、益子の陶芸教室で教えながら、製作をしていた。バブルのまっただ中で、つくれば売れる時代だったという。しかし、２８歳のとき、壁に突き当たった。<br />
「このままやっていても、一線の作家にはなれないと」<br />
　修業らしい修業もしていない。そこで、かねてより憧れていた益子の陶芸家・高内秀剛氏に弟子入りすることになる。高内氏は、作風も人柄も豪快で創意に満ち、修業の４年半は陶芸家・鈴木稔の新たな礎となる充実の時間となった。それだけに、影響も大きかった。<br />
「独立後も、高内の弟子、ということがついてまわったし、確かに作品にもその感じがあって、あがいた時期がありました」</p>
<h3>割型での製作は自分らしさを追究した結果</h3>
<p>　濱田でもなく、高内氏でもない、鈴木稔としての作品。<br />
　その突破口のひとつになったのが、型だった。<br />
「早い時期から、轆轤をやりながら型での製作もしていたんですが、きっかけはありました。この四角い向付なんですけど」と鈴木さんが取り出してきたのは、外はぴしっとした面で、中は指でおさえつけたような柔らかさがある小鉢。<br />
「これがすごくよくて、どうやって作るんだろうと思ったんだけど、教えてくれる人はいないし」<br />
　独学で型を学び、試行錯誤した上で、パーツを組み合わせる割型にたどり着いたという。欲しい形を粘土でつくり上げて石膏型をとり、いくつかのパーツに分けて板状にした陶土を張り付けて指で内側を整え、型に入った状態で合体させて乾かす。作業の実際を見て、型のイメージがひっくりがえった。量産の技法であるはずなのに、なんと手間のかかること。石膏型づくりに手間がかかることもあり、同じ型はいくつも作らないから、いくつかの型を繰り回しながら、型から外せるまでの乾燥を待ちつつ、何種類かを平行して製作してゆく。つまり、ばんばん型取りするような量産体制の対極にある作業なのだ。轆轤のほうがよっぽど早い。<br />
「ええ、轆轤のほうがよっぽどたくさんできますよ。でも、数つくることにあんまり興味がないんです。だから原型も轆轤ではつくっていないんです。よくみると丸いものでもゆがみがあるはずです」<br />
　土づくりにも手を掛けている。普通、専門店で扱っているものは、陶土を水の中にいれて不純物を取りのぞく、水簸（すいひ）という工程がほどこされている。しかし、「水簸した土には味がないんです」という鈴木さんは、自分で土を掘り起こし、手作業でゴミや石つぶを取りのぞく。そうすることで、本来の益子焼らしい素朴な土になる。<br />
　文様を型でつけるのも、個性を模索した中で生まれたもの。<br />
「筆での絵つけもけっこう上手なんです（笑）。でも、なにかちがう」<br />
　そこで出合ったのが、素焼きした器体に、型抜きクッキーみたいな紙のパーツを当て、柄を描いていく方法だった。ステンシル的な型で量産するのではない。ひとつひとつ、きっちり線を描き、釉薬一色ごとに、色をつけない部分はロウでマスキングし、焼成を重ねるのだ。量産どころか、なんという手間ひま。<br />
　「ひとつデザインが決まれば、二人の女性スタッフがやってくれますけれどね。彼女たちは手早いですよ」<br />
　線を描きながら、鈴木さんは笑う。とはいえ、手間には変わりない。<br />
「量産という回路が僕の中にはないんですよね。だから、手間がかかった分、価格にのせることもしませんね」<br />
　それでもきっと手にとる人が、違いを感じてくれるはずだと、鈴木さんは考える。<br />
　この型絵の仕事はガス窯を使っているが、実は、鈴木さんの工房敷地内には、３年ほど前に完成した小振りな薪窯もある。ここから生まれる作品が、また味わい深く、料理映えも抜群にいい。<br />
「益子焼では、薪窯で器を焼くときには、灰の影響を受けないよう鞘に入れてガードしているんです。灰がかぶって生まれる釉薬の流れは失敗作になっちゃいますから」<br />
　ところが鈴木さんは、その釉薬の流れこそ、偶然の景色で魅力的だと考える。<br />
「ガス窯の仕上がりは均質なので、窯入れでだいたい作業が終わるんですが、薪窯は、窯のどの位置に置くかで表情が変わるから、そこを考えるのも作業のひとつ。窯を開けるまでが楽しみですよね」<br />
　年に４、５回焼くという薪窯の作品は、毎回が実験で、失敗作も出る。でも、それを上回る面白さ。柿釉、飴釉、黒釉、糠白釉、並白釉、青釉、灰釉。こうした益子独特の釉薬が、端正な器体の上で、さまざまな表情を見せる。どれも益子の衣をまとっていながら個性豊かで、モダン。北欧の焼き物を思わせるところもある。<br />
「２年前にデンマークに行って、そこで製作を経験したことも、作品に影響していると思いますね」<br />
　<br />
　最初に、濱田庄司は益子に二つの種を蒔いた、と書いたけれど、鈴木さんは、この二つの種が新たに結びついた、ハイブリッド種かもしれない。作家を歓迎する開かれたこの土地では、たやすく他の産地の土も手に入るから、ことさら益子焼を意識しないつくり手も多い。けれど最近の益子では、土地の土、釉薬に魅せられ、地の恵みを生かして作品づくりする若手作家も増えている。40代後半の鈴木さんは、年齢といい、作風といい、その旗手たる存在に思える。<br />
　鈴木さんが古い益子焼を取り出してくる。灰色した薄づくりの杯台。<br />
「これ、明治くらいのかな。こんな薄いものもつくっていたんですよ。すごく薄い益子焼をつくる若い作家が益子焼らしくないと思われたりするけれど、実は昔にもあったんです」<br />
　らしい、らしくない、というのは表面的、一面的なことなんだ、とふと気づく。濱田庄司も、英国や沖縄の焼き物に学び、益子の土瓶に魅せられ、益子の土と釉薬を使って彼独特の作品を生み出したのだ。影響を血肉として、新たな作品が生まれていく。それこそが伝統継承の真実で、いつだって伝統は進行形なのだ。そのことを、益子焼の若い人たちは体現している。鈴木さんを始めとする新しいスタイルの作家が増え、昨今彼らはさまざまなムーブメントを益子から発信している。これから先も、また楽しい動きがありそうで、目が離せない。</p>
<p>【鈴木 稔】<br />
1962年、埼玉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。91年より４年半、益子の陶芸家である高内秀剛氏に師事。96年に、益子町芦沼に築窯、独立。益子の土と釉薬を使い、割型による器を中心に製作。個展を中心に活動。</p>
<p><img class="alignnone size-medium wp-image-1792" title="12" src="http://www.thecovernippon.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/07/002.jpg" alt="12" width="210" height="157" /></p>
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		</item>
		<item>
		<title>駿河竹千筋細工　篠宮康博さんを訪ねて</title>
		<link>http://www.thecovernippon.jp/surugatakesensujizaiku_interview/</link>
		<comments>http://www.thecovernippon.jp/surugatakesensujizaiku_interview/#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 30 Jun 2010 15:00:35 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[今月の贈り物]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.thecovernippon.jp/surugatakesensujizaiku_interview/</guid>
		<description><![CDATA[　東海道新幹線の静岡駅下車。
　東京よりもひときわ明るい光に満ちている気がする。前は太平洋の大海原、背には霊峰、富士。海の幸、山の幸に恵まれた温暖な気候。私が静岡という町に抱く豊かなイメージそのままの空の下、駿河竹千筋細工職人、篠宮康博さんの仕事場へと向かう。駅から徒歩１０分ほど。古い商店あり、新しいファストフード店あり、高校あり、の県道沿いに、篠宮竹細工所はあった。
大御所様の城下町で栄えた工芸品
　かつて駿府と呼ばれた静岡市は、徳川家康公のお膝元。駅の北口には、堂々たるブロンズ像が立っている。将軍職を退いた家康公は、心の故郷である駿府城に戻り、生涯を終えるのだが、この豊かな土地を愛していたからこそ、と思いをはせる。
　大御所様、とはいえ、江戸幕府を興したパワフルなご隠居さんは、ここでも川を治水し、町を整え、城下町の整備振興に力を注いだ。おかげで、駿府にはたくさんの職人が集まり、手工業が栄え、いまなおたくさんの伝統工芸が残っている。だからだろうか、そのひとつである竹千筋細工もまた、家康公ゆかりの工芸品という説が根強くある。
「鷹狩りが好きだった家康公のため、鷹匠が鷹の餌箱を作ったのが始まりという話がありますね。でも実際はどうなんでしょう」とは、篠宮さん。これを参考に、と取り出した『おかんじゃけ』というタイトルの、駿河竹千筋細工史をまとめた本によれば、江戸初期には、籠枕なる竹編みの枕が駿府で作られ、江戸城内でも愛用されていたらしい。さらに江戸後期、より高度な竹細工を作りたいと願っていた駿府の人が、旅の途中であった岡崎藩の武士に丸ひごによる繊細な竹組み技術を学んだ。これが、今に通じる竹千筋細工の始まり、とある。ちなみに、この資料のタイトルにある〝おかんじゃけ〟とは、竹製の玩具で、静岡市内にある洞慶院にて開山忌に売られる竹製の厄除け玩具のこと。
「県内の安倍川や天竜川の流域に質のいい真竹が自生していたので、昔から静岡は、竹細工が盛んだったようです」
　元禄の頃の俳人・鬼貫が「虫かごを買うて裾野に向かいけり」と詠んでいることから、江戸時代前期には名物になっていたようでもあり、成り立ちの謎は、探るほどに深まるばかり。ああ、本当のところを知りたいなあ。というのも、丸ひごを組むという竹細工の技法が、日本全国あまたある竹細工の中で、ここだけだからだ。丸ひごは角がないから、鳥や虫の羽を傷めない、その優しさも好ましい。
竹ひごから手がける一貫作業の工芸品
　その優しい道具ゆえか、静岡の土地柄ゆえか、手がける職人さんたちは、みな穏やかで優しい。篠宮さんも例外ではなく、丁寧に、倦むことなく、その作業の実際を説明してくださる。
　なんと、竹ひご作りから手がけるのだ。一昼夜水に浸けておいた真竹の表皮を削ってから、ぱぱん、ぱりりん、と鉈で勢いよく割り、小分けし、さらにうすくへいでいく。へぐ、とは、はぐ、と同義。そして、せん台でへいだ竹の厚みを揃える。この段階では角があり、へいだものでもあることから、静岡では、この状態のひごを〝へご〟と呼び、角を取った丸いひごを〝ひご〟と呼んで区別している。さて、このへごの先端を刃物で小割りにしたら、くじき、という作業になるのだが、おっ、と思わず目を見張った。篠宮さんはへごを両手で握って、ぐりぐりと捻る。すると、切り込みの幅で竹が細く裂けていくのだ。
「やってみますか」とふいに篠宮さんから手渡されたのだが、これが、いやあ往生した。全然裂けない。篠宮さんはこともなげにやっていたのに。ぐいっとさらに力を入れて捻り、ようやく少し裂けてきた。なんて力がいるのだろう。でも、まだひごにはなっていない。
「ひご通しという丸い穴の空いた刃物にへごを通して、角を削るんですよ」
　真っすぐ引っ張らないといびつになるというこの刃物は、江戸時代から変わらない道具だという。穴の大きさはいくつかある。だいたい1.2ミリ程度の太さが一般的。
「この細いひごが、別名、千筋。ひごあっての竹千筋細工なんです。ひたすら竹を削っている日もありますよ」
　内職などに出すことはない。基本、一貫製作なのが、駿河竹千筋細工の特徴でもある。
「材料をいかに細く削って、売れる品をつくるか。そこが面白いところですからね」
　こうしてできたひごを仕事場の２階に運び、数十本束ね、熱した電気ごてでくいっと曲げる。かつては、七輪の炭火で熱したこてで曲げたという。電気になって、安定温度で作業できるようになった。
「だいたい２００度くらいです。コテは半円形で、これを工夫して使って、必要な角度に曲げます」
　熱で曲げることができる竹の性質を生かした技だ。茶杓も、火にあぶりながら作る。しかし、細いひごは、長く当て過ぎれば焦げてしまう。そのあたりの勘どころが、難しい。
　ひご曲げする篠宮さんの傍らで、愛弟子の大村恵美さんが花器の組み立てを進めていた。他に女性が２名。お弟子さんではなく、篠宮さん曰く〝サポーター〟。竹千筋細工に魅了され、カルチャーセンターで学んだ後、技術を生かしたいと、不定期で作業に参加しているという。彼女たちが手がけているのは、よくよく見れば、「NIPPONと暮らす」７月号の中ページで紹介している花器と同様の技法。下枠と上枠にひごを差す穴があるが、垂直にではなくいくつか穴をずらして斜めに差していく。逆角度で同様に作業すれば、曲線を描いたヒゴが柔らかに交差する。
「穿つ穴の角度が肝です。斜めに差していくわけですから」
　これにより、編みにも似た複雑さが可能になるのだ。
　こんな風に、幾何学的な工夫を凝らし、編みの作業も加え、より精密に、繊細な細工になったのは、明治以降だという。
「そもそも駿府の武士の内職だったのが、明治維新後、本業になったようですよ」
　殖産振興のため、明治6年（１８７３年）ウィーン国際大博覧会に出品、好評を博すなどの成果を上げる中で、竹千筋細工は、デザイン、アイテムともに広がりを見せ、産業として発展していったのだ。
職人それぞれに得意がある竹千筋細工
　駿河竹千筋細工の職人さんたちは、それぞれに得意がある。
「かつて問屋さんがたくさんあった時代、職人を何人か専属でかかえていたんです。そうすると、人によって得意なものがあるから、自然と同系統のものを頼まれるようになるでしょ」
　花器、茶托、灯り、盆、バッグ・・・。新作に意欲的な工房がある一方、十年一日のごとく、同じものを作り続ける工房もある。
　その中にあって、篠宮さんの作品はひと味違う。シンプルで、ムダがない。瑞々しい竹の魅力が伝わってくる。種類も、多岐にわたっている。
「こだわっているというか、人と同じものを作らないほうがいいな、っていうのはありますね」
　そう控えめに語るけれども、思いは熱い。
　篠宮さんは、父親の仕事を継ぐべく、１５歳で仕事を始めたが、家業は竹編みの雑器中心だった。竹千筋細工の仕事を覚えた方がいいと父親に勧められ、灯りを手掛ける工房に弟子入りし、技術を学んだ。
「だから、私の作るものは、編みも組みもありますし、最初に公募展に出した作品は、竹千筋細工ですらなかったんです」
　工芸品の公募展には、30歳くらいから出品している。既製品ではない、「自分らしいものを作りたかったんです」と篠宮さん。今でも作りたいものが出てくると、休日を利用して試作してみるという。頭の中は、いつも仕事のことでいっぱいなのだ。
「だからね、趣味はって聞かれると困っちゃう」と笑う。
　そんなチャレンジ精神旺盛な篠宮さんに大きな転機が訪れた。
　デザイナーの内田繁氏が平成５年（１９９３年）に発表し、高い評価を受けた移動式茶室、受庵、想庵、行庵の外壁を請け負うことになったのだ。
「世界的に活躍する人がどんな考えなのか、やはり関心はありましたよね」
　そして、内田氏との仕事を通し、ムダなデザインは削ぎ落し、素材のよさを生かすことの大切さを学んだという。
「いろいろなのものを見るにつけ、余計なことが多いなとは思っていたんです。その気持ちに裏付けができた感じです」
　また、竹の魅力は、軽さと清々しさだと気づきもした。
「その良さを、殺してしまってはいけないと思うんですよ」
　だから、常に、竹の特性を生かして形を作る。
「しなやかで、伸びやかで、身近な素材。竹って本当に優れた特徴があるでしょう。そんな竹の恩恵を我々作り手はもらっているわけですからね」
輸出の時代を終え、日本人が愛する工芸品へ
　戦前はヨーロッパ向けに、戦後はアメリカ向けに、とにかく輸出が盛んで、国内よりも海外での評価も知名度も高かった竹千筋細工。しかし、そんなバンブードリームは７０年代のドルショックで終焉を迎える。
「海外向けに、煙草入れなど本当にたくさん作っていた時代があるんです。だから、地元なのに竹千筋細工のことを知らない人も多かったんですよ」
　日本の伝統工芸品の多くは、似たような道を辿っている。今私たちが見ることのできるものは、辛い時代をサバイバルした産業ともいえるだろう。昭和５１年（１９７６年）に伝統的工芸品の指定を受け、それまでは，ただ駿河細工などと呼ばれていたものを、改めて〝駿河竹千筋細工〟　と命名。以来、組合活動を通して、研修制度や新作発表会を行ない、活発に活動している。
「でもね、やはり後継者問題があって、今は13業者になってしまいました」
　静岡竹工芸協同組合の理事長でもある篠宮さんは、ちょっと寂しそうに言う。
　でも、弟子の大村さんのように、職人を志す若者も少なくない。サポーターという新たな形の担い手も、竹千筋細工の未来を照らす。
「静岡の伝統工芸品としては知名度があるんですけど、全国区ではまだまだです」
　竹千筋細工は、夏らしい風情をもつ道具だ。作り手としては、季節を通して売れてほしいと思うだろうし、実際、そういうアイテムも多々あるが、季節の道具、というものを今改めて見直してもいいと思う。夏が巡る度に食卓やコーナーに登場する、そんな道具。
「そのためにも、長く愛される品を作らないといけませんね」
　定番の作品、たとえば今回の贈り物に撰んだ蓋物〝五十鈴〟も、篠宮さんはマイナーチェンジを加えながら、より使いやすく丈夫な形へと進化させてきた。　
「まずはしまい込まないで、使ってください。竹は生き物ですから、風の通るところに置いていただければ長持ちします」
　かつて、ちょっと贅沢な工芸品は、贈答品として重宝されたが、押し入れや納戸に入ったままのものも少なくないとか。それでは悲しいし、もうそんな無駄を尊ぶ時代でもないだろう。
　作ること。伝えること。使うこと。その三位一体で、伝統工芸品の未来は続いていくのだと思う。
【篠宮竹細工所】
1941年生まれの篠宮康博さんは、15歳より父・篠宮正一氏を師として竹編み技術を身につける。その後、さらに竹細工の可能性を広めるため、竹千筋細工の佐藤長市氏に改めて師事する。&#8217;66年、篠宮竹細工所を設立、現在に至る。多彩な竹細工技術を駆使した作品作りを得意とし、伝統産業工芸展等での入選歴多数。駿河竹千筋細工伝統工芸士であり、静岡市伝統工芸技術秀士でもある。

左が篠宮康博さん。右が弟子の大村恵美さん。大村さんは、高校時代に竹細工に出合い、篠宮さんの弟子になった。あれから１０年。篠宮さんの仕事をしっかり支える頼もしい存在に。今後が楽しみ。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　東海道新幹線の静岡駅下車。<br />
　東京よりもひときわ明るい光に満ちている気がする。前は太平洋の大海原、背には霊峰、富士。海の幸、山の幸に恵まれた温暖な気候。私が静岡という町に抱く豊かなイメージそのままの空の下、駿河竹千筋細工職人、篠宮康博さんの仕事場へと向かう。駅から徒歩１０分ほど。古い商店あり、新しいファストフード店あり、高校あり、の県道沿いに、篠宮竹細工所はあった。</p>
<h3>大御所様の城下町で栄えた工芸品</h3>
<p>　かつて駿府と呼ばれた静岡市は、徳川家康公のお膝元。駅の北口には、堂々たるブロンズ像が立っている。将軍職を退いた家康公は、心の故郷である駿府城に戻り、生涯を終えるのだが、この豊かな土地を愛していたからこそ、と思いをはせる。<br />
　大御所様、とはいえ、江戸幕府を興したパワフルなご隠居さんは、ここでも川を治水し、町を整え、城下町の整備振興に力を注いだ。おかげで、駿府にはたくさんの職人が集まり、手工業が栄え、いまなおたくさんの伝統工芸が残っている。だからだろうか、そのひとつである竹千筋細工もまた、家康公ゆかりの工芸品という説が根強くある。<br />
「鷹狩りが好きだった家康公のため、鷹匠が鷹の餌箱を作ったのが始まりという話がありますね。でも実際はどうなんでしょう」とは、篠宮さん。これを参考に、と取り出した『おかんじゃけ』というタイトルの、駿河竹千筋細工史をまとめた本によれば、江戸初期には、籠枕なる竹編みの枕が駿府で作られ、江戸城内でも愛用されていたらしい。さらに江戸後期、より高度な竹細工を作りたいと願っていた駿府の人が、旅の途中であった岡崎藩の武士に丸ひごによる繊細な竹組み技術を学んだ。これが、今に通じる竹千筋細工の始まり、とある。ちなみに、この資料のタイトルにある〝おかんじゃけ〟とは、竹製の玩具で、静岡市内にある洞慶院にて開山忌に売られる竹製の厄除け玩具のこと。<br />
「県内の安倍川や天竜川の流域に質のいい真竹が自生していたので、昔から静岡は、竹細工が盛んだったようです」<br />
　元禄の頃の俳人・鬼貫が「虫かごを買うて裾野に向かいけり」と詠んでいることから、江戸時代前期には名物になっていたようでもあり、成り立ちの謎は、探るほどに深まるばかり。ああ、本当のところを知りたいなあ。というのも、丸ひごを組むという竹細工の技法が、日本全国あまたある竹細工の中で、ここだけだからだ。丸ひごは角がないから、鳥や虫の羽を傷めない、その優しさも好ましい。</p>
<h3>竹ひごから手がける一貫作業の工芸品</h3>
<p>　その優しい道具ゆえか、静岡の土地柄ゆえか、手がける職人さんたちは、みな穏やかで優しい。篠宮さんも例外ではなく、丁寧に、倦むことなく、その作業の実際を説明してくださる。<br />
　なんと、竹ひご作りから手がけるのだ。一昼夜水に浸けておいた真竹の表皮を削ってから、ぱぱん、ぱりりん、と鉈で勢いよく割り、小分けし、さらにうすくへいでいく。へぐ、とは、はぐ、と同義。そして、せん台でへいだ竹の厚みを揃える。この段階では角があり、へいだものでもあることから、静岡では、この状態のひごを〝へご〟と呼び、角を取った丸いひごを〝ひご〟と呼んで区別している。さて、このへごの先端を刃物で小割りにしたら、くじき、という作業になるのだが、おっ、と思わず目を見張った。篠宮さんはへごを両手で握って、ぐりぐりと捻る。すると、切り込みの幅で竹が細く裂けていくのだ。<br />
「やってみますか」とふいに篠宮さんから手渡されたのだが、これが、いやあ往生した。全然裂けない。篠宮さんはこともなげにやっていたのに。ぐいっとさらに力を入れて捻り、ようやく少し裂けてきた。なんて力がいるのだろう。でも、まだひごにはなっていない。<br />
「ひご通しという丸い穴の空いた刃物にへごを通して、角を削るんですよ」<br />
　真っすぐ引っ張らないといびつになるというこの刃物は、江戸時代から変わらない道具だという。穴の大きさはいくつかある。だいたい1.2ミリ程度の太さが一般的。<br />
「この細いひごが、別名、千筋。ひごあっての竹千筋細工なんです。ひたすら竹を削っている日もありますよ」<br />
　内職などに出すことはない。基本、一貫製作なのが、駿河竹千筋細工の特徴でもある。<br />
「材料をいかに細く削って、売れる品をつくるか。そこが面白いところですからね」<br />
　こうしてできたひごを仕事場の２階に運び、数十本束ね、熱した電気ごてでくいっと曲げる。かつては、七輪の炭火で熱したこてで曲げたという。電気になって、安定温度で作業できるようになった。<br />
「だいたい２００度くらいです。コテは半円形で、これを工夫して使って、必要な角度に曲げます」<br />
　熱で曲げることができる竹の性質を生かした技だ。茶杓も、火にあぶりながら作る。しかし、細いひごは、長く当て過ぎれば焦げてしまう。そのあたりの勘どころが、難しい。<br />
　ひご曲げする篠宮さんの傍らで、愛弟子の大村恵美さんが花器の組み立てを進めていた。他に女性が２名。お弟子さんではなく、篠宮さん曰く〝サポーター〟。竹千筋細工に魅了され、カルチャーセンターで学んだ後、技術を生かしたいと、不定期で作業に参加しているという。彼女たちが手がけているのは、よくよく見れば、「NIPPONと暮らす」７月号の中ページで紹介している花器と同様の技法。下枠と上枠にひごを差す穴があるが、垂直にではなくいくつか穴をずらして斜めに差していく。逆角度で同様に作業すれば、曲線を描いたヒゴが柔らかに交差する。<br />
「穿つ穴の角度が肝です。斜めに差していくわけですから」<br />
　これにより、編みにも似た複雑さが可能になるのだ。<br />
　こんな風に、幾何学的な工夫を凝らし、編みの作業も加え、より精密に、繊細な細工になったのは、明治以降だという。<br />
「そもそも駿府の武士の内職だったのが、明治維新後、本業になったようですよ」<br />
　殖産振興のため、明治6年（１８７３年）ウィーン国際大博覧会に出品、好評を博すなどの成果を上げる中で、竹千筋細工は、デザイン、アイテムともに広がりを見せ、産業として発展していったのだ。</p>
<h3>職人それぞれに得意がある竹千筋細工</h3>
<p>　駿河竹千筋細工の職人さんたちは、それぞれに得意がある。<br />
「かつて問屋さんがたくさんあった時代、職人を何人か専属でかかえていたんです。そうすると、人によって得意なものがあるから、自然と同系統のものを頼まれるようになるでしょ」<br />
　花器、茶托、灯り、盆、バッグ・・・。新作に意欲的な工房がある一方、十年一日のごとく、同じものを作り続ける工房もある。<br />
　その中にあって、篠宮さんの作品はひと味違う。シンプルで、ムダがない。瑞々しい竹の魅力が伝わってくる。種類も、多岐にわたっている。<br />
「こだわっているというか、人と同じものを作らないほうがいいな、っていうのはありますね」<br />
　そう控えめに語るけれども、思いは熱い。<br />
　篠宮さんは、父親の仕事を継ぐべく、１５歳で仕事を始めたが、家業は竹編みの雑器中心だった。竹千筋細工の仕事を覚えた方がいいと父親に勧められ、灯りを手掛ける工房に弟子入りし、技術を学んだ。<br />
「だから、私の作るものは、編みも組みもありますし、最初に公募展に出した作品は、竹千筋細工ですらなかったんです」<br />
　工芸品の公募展には、30歳くらいから出品している。既製品ではない、「自分らしいものを作りたかったんです」と篠宮さん。今でも作りたいものが出てくると、休日を利用して試作してみるという。頭の中は、いつも仕事のことでいっぱいなのだ。<br />
「だからね、趣味はって聞かれると困っちゃう」と笑う。<br />
　そんなチャレンジ精神旺盛な篠宮さんに大きな転機が訪れた。<br />
　デザイナーの内田繁氏が平成５年（１９９３年）に発表し、高い評価を受けた移動式茶室、受庵、想庵、行庵の外壁を請け負うことになったのだ。<br />
「世界的に活躍する人がどんな考えなのか、やはり関心はありましたよね」<br />
　そして、内田氏との仕事を通し、ムダなデザインは削ぎ落し、素材のよさを生かすことの大切さを学んだという。<br />
「いろいろなのものを見るにつけ、余計なことが多いなとは思っていたんです。その気持ちに裏付けができた感じです」<br />
　また、竹の魅力は、軽さと清々しさだと気づきもした。<br />
「その良さを、殺してしまってはいけないと思うんですよ」<br />
　だから、常に、竹の特性を生かして形を作る。<br />
「しなやかで、伸びやかで、身近な素材。竹って本当に優れた特徴があるでしょう。そんな竹の恩恵を我々作り手はもらっているわけですからね」</p>
<h3>輸出の時代を終え、日本人が愛する工芸品へ</h3>
<p>　戦前はヨーロッパ向けに、戦後はアメリカ向けに、とにかく輸出が盛んで、国内よりも海外での評価も知名度も高かった竹千筋細工。しかし、そんなバンブードリームは７０年代のドルショックで終焉を迎える。<br />
「海外向けに、煙草入れなど本当にたくさん作っていた時代があるんです。だから、地元なのに竹千筋細工のことを知らない人も多かったんですよ」<br />
　日本の伝統工芸品の多くは、似たような道を辿っている。今私たちが見ることのできるものは、辛い時代をサバイバルした産業ともいえるだろう。昭和５１年（１９７６年）に伝統的工芸品の指定を受け、それまでは，ただ駿河細工などと呼ばれていたものを、改めて〝駿河竹千筋細工〟　と命名。以来、組合活動を通して、研修制度や新作発表会を行ない、活発に活動している。<br />
「でもね、やはり後継者問題があって、今は13業者になってしまいました」<br />
　静岡竹工芸協同組合の理事長でもある篠宮さんは、ちょっと寂しそうに言う。<br />
　でも、弟子の大村さんのように、職人を志す若者も少なくない。サポーターという新たな形の担い手も、竹千筋細工の未来を照らす。<br />
「静岡の伝統工芸品としては知名度があるんですけど、全国区ではまだまだです」<br />
　竹千筋細工は、夏らしい風情をもつ道具だ。作り手としては、季節を通して売れてほしいと思うだろうし、実際、そういうアイテムも多々あるが、季節の道具、というものを今改めて見直してもいいと思う。夏が巡る度に食卓やコーナーに登場する、そんな道具。<br />
「そのためにも、長く愛される品を作らないといけませんね」<br />
　定番の作品、たとえば今回の贈り物に撰んだ蓋物〝五十鈴〟も、篠宮さんはマイナーチェンジを加えながら、より使いやすく丈夫な形へと進化させてきた。　<br />
「まずはしまい込まないで、使ってください。竹は生き物ですから、風の通るところに置いていただければ長持ちします」<br />
　かつて、ちょっと贅沢な工芸品は、贈答品として重宝されたが、押し入れや納戸に入ったままのものも少なくないとか。それでは悲しいし、もうそんな無駄を尊ぶ時代でもないだろう。<br />
　作ること。伝えること。使うこと。その三位一体で、伝統工芸品の未来は続いていくのだと思う。</p>
<p>【篠宮竹細工所】<br />
1941年生まれの篠宮康博さんは、15歳より父・篠宮正一氏を師として竹編み技術を身につける。その後、さらに竹細工の可能性を広めるため、竹千筋細工の佐藤長市氏に改めて師事する。&#8217;66年、篠宮竹細工所を設立、現在に至る。多彩な竹細工技術を駆使した作品作りを得意とし、伝統産業工芸展等での入選歴多数。駿河竹千筋細工伝統工芸士であり、静岡市伝統工芸技術秀士でもある。</p>
<p><img src="http://www.thecovernippon.jp/images/common/20100701_12.jpg" alt="12" title="12" width="210" height="157" class="alignnone size-medium wp-image-1792" /><br />
左が篠宮康博さん。右が弟子の大村恵美さん。大村さんは、高校時代に竹細工に出合い、篠宮さんの弟子になった。あれから１０年。篠宮さんの仕事をしっかり支える頼もしい存在に。今後が楽しみ。</p>
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		<item>
		<title>東京手打刃物　岩田増太郎さん、仁男さんを訪ねて</title>
		<link>http://www.thecovernippon.jp/masutaro_interview/</link>
		<comments>http://www.thecovernippon.jp/masutaro_interview/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 31 May 2010 15:00:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[日本の手仕事]]></category>

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		<description><![CDATA[見事なはさみ、東京・葛飾にあり
　幼いころ、はさみのハンドルの輪っかにぎこちなく指を入れて、開いたり閉じたりしたっけ。大人の使う大きな裁ちばさみは重くって手にくい込むようだった。その重い道具で足の爪を切る父は、カッコいい〝刃物使いの達人〟に見えた。
「昔は、ひとつのはさみでなんでも切ってましたよねえ」と増太郎裁鋏製作所の岩田仁男さんは、さまざまな用途のはさみを見せつつ笑う。きりっとした精悍な容姿の仁男さんが、今は工場を取り仕切るが、創業者である父親の増太郎さんも、８６歳という高齢ながら、現役で仕事を続けている。他に熟練の職人さんが二人通いできている。鋼を扱う仕事ゆえ、誰もが黒く染まった指先をしている。工場は、映画『男はつらいよ』で知られる葛飾・柴又近く、金町という土地にある。近くには、柴又と金町をつなぐ京成線の単線がのどかに走る。
　こちらのはさみに出合ったのは、そう古い話ではない。５年ほど前だろうか。ある展示会でひんやりと光を放つ総みがきのはさみに出合い、目を見張った。なんて、きれい！切れ味なんて考えもせず、その美しさに見惚れての買いものだった。
　だから、使ってみてびっくりした。これまで使っていたはさみとは全然違う。切れ味はもちろん、手にしたときの重みのバランスがいいし、手の当たり加減もいい。はさみって、使っているうちに手のどこかに当たって痛くなることがある。その予感がない。それに、ネジの動きが軽やかで、しゃきーんと気持ちいい切れ味なのだ。
　こんなはさみが、日本にあったのだ。
刀鍛冶技術が支える日本の裁ちばさみ
　日本のモノづくりの多くは、明治維新というミソギを受けた上で今がある。特に、武家社会から四民平等の世に変わることで、たくさんの職人さんが打撃を受けた。たとえば、武士の象徴である刀が必要でなくなった。さあて、大変。しかし、いつの世も〝ピンチはチャンス〟と機転をきかせる人がいる。
　維新に先駆け、鎖国が解かれて欧風文化がどっと押し寄せてきた幕末日本。ラシャと呼ばれる洋装用の厚地ウール素材の導入とともに、仕立業も誕生したが、そのラシャを裁つラシャ切りはさみが日本人の手には重く使いづらいものだったらしい。そこで、日本人に使いやすいよう改良したのが、刀鍛冶職人だった吉田弥十郎、通称弥吉（１８５９年生まれ）。農具などを作る野鍛冶の家に生まれた弥吉さんは、12歳のときに刀鍛冶の弟子になったが、まもなく明治維新。廃刀令で刀が作れなくなったが、せっかく身につけた技術、これを生かして日本ならではの裁ちばさみを作ろうと思い立ったのだ。
「一本の鉄を打ち伸ばす〝総火造り〟という刀鍛冶の技法で、日本人に使いやすい裁ちばさみを造り出したんです。いまも裁ちばさみを作っている家の多くが、弥吉さん系なんですよ」
　日本の刃物技術は世界に誇れるもの。実は、海外ブランドが扱う高級品には、日本製も多いという。歌舞伎や文楽の狂言にも、お家の宝刀を巡る騒動が多いように、刀は武士の命。宝刀はすなわち美であり、切れ味である。その要望に応えてきた刀作りの歴史が、日本の刃物を磨き上げたのだ。
　増太郎裁鋏製作所も、弥吉系の流れをくむ。素材はステンレスになったが、熱して叩いて、冷やしてはまた熱して叩き、素材を鍛えて刃を作る刀の技術は、変わらず受け継がれているという。
後発メーカーゆえの品質への情熱
　しかし、会社そのものは、仁男さんの父・増太郎さんが創業した後発のメーカーだ。
　両親を早くに亡くした増太郎さんは、つてを頼って千葉県松戸市の裁ちばさみ工場で修業後、独立。最初は農家の納屋からのスタートだったという。が、時は高度成長期。作れば売れるという時代だったが、新参ということもあり、最初は荷解き用はさみなどを作っていたという。
「弥吉さん直系の老舗のブランドメーカーがありがたがられましたからね」
　その分、対応の早さや質、品数で勝負して、実績を積み上げていった。若い会社であることが、幸いもした。
「東京のはさみ屋さんで、ステンレスを最初に取り入れたのはうちでしょう。ペーペーだから新しいことやらなくちゃいけないでしょ。でも、鉄より時間がかかるし、新しい設備もいるし、けっこう大変だったようです」
　はさみは錆びるものという常識が、ステンレスの導入により変わってきた。医療用や食品用は、衛生面からも、いちはやくサビないステンレスばさみを使うようになったという。そうした需要により、増太郎のはさみは、もっと使いよいよう、切れ味いいよう、研鑽を重ねていく。また、多品種作るという対応のよさから、はさみを使う職人さんからの依頼も増えていった。つまりプロユースのはさみを多く手がけるようになったのだ。
「職人さんは、道具にうるさいですからね。手に当たるよとか、文句もきます。それだけ手の感覚が鋭いんですよね」
　そのために、ハンドルの輪の形や手当たりにも工夫を凝らし、長時間の作業でも使いやすいよう、作業に合った持ち手と刃先の重さのバランスを考えた。
「たとえば、作業台に置いてはさみを滑らすようにして布を切る男物の服地には、刃先が重いものが使いやすいんです。で、布を浮かせて切る軽い女性用の布地なら、ハンドルが重いほうが使いやすい、という違いがあるんですよ」
　また、裁ちばさみの場合は、布の流行に合わせて切れ味も変える。ストレッチ素材やシースルー素材などで研ぎ加減を変えていくのだ。耐熱素材や防弾素材など、切れにくい新素材が登場すれば、それに対応できる刃を磨ぎ出して作り上げる。
「もう、いたちごっこです。さらに切れない素材が出てくるんですから（笑）」
　なるほど、こうしたプロの難題をクリアしてきた負けん気の強い職人魂がベースにあるからこそ、増太郎のはさみは、家庭用のはさみでさえも、驚くような切れ味を持っているのだ。納得、納得。
採算度外視の手の掛けようは感動的
　いや、納得するのは早すぎでした。
　おうかがいした日は、残念ながら鍛造や熱処理など、火を使う仕事が終わったばかりで、ダイナミックな作業を拝見することは叶わなかったけれど、研磨や仕上げの仕事を見るだけでも、いったいどれだけ手をかけているのかと気が遠くなるほど、細かい作業を繰り返していることに、驚かされた。
「はさみ作りは、大きく分けると三つの作業に分かれるんです。まずは、鍛造または火造りで、形を作りつつ、鋼の分子密度を上げる工程。次は、熱処理または焼き入れと言って、鋼に硬さと粘りを加える工程。ここで刃持ちのよさが決まるんです。最後が研磨で、刃先を鋭くし、全体の形を整え、表面を美しく磨きます」
　また、作業の随所で、刃のひずみの微調整を繰り返している。はさみの仕組みって、ご存じだろうか。実は深く考えたことがなく、ぜいぜい開いて閉じるときにすぱりと切れる、程度。
「開いたときにはわずかに二枚の刃の間に隙間が生まれ、閉じるときに刃が重なることで切れる仕組みになっています。また、右刃は動かさず、左刃を親指で動かして切っているんですよ。だから、刃のひずみは命取り。これを最後まで微調整し続けるんです。そして、刃を止めるネジの締め方も重要なんですよ」
　私が使っている増太郎のはさみのネジは、使い始めより少し緩めになってきているのだが、それゆえに動きが滑らかで、刃が重なる時はしっかり締まる感じがして、とても使いやすい。ああ、これが技なのだ。
「最初は少しきつめに締めて、使ううちに滑らかになるよう考えているんです。かなり微妙に締めてますから、自分でねじ回しを使って締めたりはしないでくださいね」
　了解です。
　ところで、それこそはさみにはピンからキリまでさまざまある。１００円ショップで買えるものも。その差は、見ればなんとなくわかるのだが、しかし何かが決定的に違う気がする。
「うちではひとつひとつ型取りしてから鍛造していきますが、安いものは、鋼板の段階で熱処理して柔らかくしたら、流れ作業でばんばん型抜きしていくんです。量産できるから、コストも下がります。つまり使いやすさや切れ味を求める作り方ではないわけです」
　だけど、と仁男さんは言う。
「そうやって作りながら、わかりやすいところだけきれいに仕上げている、見かけ倒しのはさみもあるんです。それが結構高い値段で売られているのは情けないですよね」
　このところ、増太郎のはさみの中では、家庭用のはさみの売れ行きが伸びているという。いいものを求める消費者が育ってきたのだろう。もっとピッチを上げて作れればよいけれど、生産がなかなか追いつかないのが現状だ。
「スピードを追い求めると、製品の質が落ちちゃうんです。もうだから、スピードじゃないって腹をくくってます。プロユースのはさみの切れ味を知っているから、それを家庭用でもキープしていきたいんです」
　今必要なのは、ブランドではないと、改めて思い知らされる。妥協しない品質への追究こそ、使い手を惹きつける力になる。超情報社会の今、評判はまさに千里を走るからこそ、手抜きが命取りになるのだ。
　余談だが、私が増太郎のはさみを父に自慢したところ、「前に買ったいいはさみがある。あれも切れ味いいんだぞ」と、愛用のはさみを持ち出してきた。それに打ち込まれた刻印を見て、私はにやっと笑った。なんとそのはさみも、増太郎印だったのだ。
【増太郎裁鋏製作所】
1948年創業。初代の岩田増太郎さんは、「総火造り」の裁ちばさみを考案した吉田弥十郎系の親方のもとに弟子入り後、独立。裁ちばさみを始め、食品用、医療用、アパレル用などのプロユースのはさみから、家庭用のクラフトばさみやキッチンばさみまで手がける。その切れ味と使いやすさには定評がある。

左は岩田増太郎さん（1924年生まれ）。右は息子の仁男さん（1956年生まれ）。年季の入った機械が並ぶ工場内だが、勘と経験で判断する部分が多く、また仕上げは念入りに手作業で進めている。採算度外視で手を掛ける姿勢が、よいはさみを生み出しているのだ。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>見事なはさみ、東京・葛飾にあり</h3>
<p>　幼いころ、はさみのハンドルの輪っかにぎこちなく指を入れて、開いたり閉じたりしたっけ。大人の使う大きな裁ちばさみは重くって手にくい込むようだった。その重い道具で足の爪を切る父は、カッコいい〝刃物使いの達人〟に見えた。<br />
「昔は、ひとつのはさみでなんでも切ってましたよねえ」と増太郎裁鋏製作所の岩田仁男さんは、さまざまな用途のはさみを見せつつ笑う。きりっとした精悍な容姿の仁男さんが、今は工場を取り仕切るが、創業者である父親の増太郎さんも、８６歳という高齢ながら、現役で仕事を続けている。他に熟練の職人さんが二人通いできている。鋼を扱う仕事ゆえ、誰もが黒く染まった指先をしている。工場は、映画『男はつらいよ』で知られる葛飾・柴又近く、金町という土地にある。近くには、柴又と金町をつなぐ京成線の単線がのどかに走る。<br />
　こちらのはさみに出合ったのは、そう古い話ではない。５年ほど前だろうか。ある展示会でひんやりと光を放つ総みがきのはさみに出合い、目を見張った。なんて、きれい！切れ味なんて考えもせず、その美しさに見惚れての買いものだった。<br />
　だから、使ってみてびっくりした。これまで使っていたはさみとは全然違う。切れ味はもちろん、手にしたときの重みのバランスがいいし、手の当たり加減もいい。はさみって、使っているうちに手のどこかに当たって痛くなることがある。その予感がない。それに、ネジの動きが軽やかで、しゃきーんと気持ちいい切れ味なのだ。<br />
　こんなはさみが、日本にあったのだ。</p>
<h3>刀鍛冶技術が支える日本の裁ちばさみ</h3>
<p>　日本のモノづくりの多くは、明治維新というミソギを受けた上で今がある。特に、武家社会から四民平等の世に変わることで、たくさんの職人さんが打撃を受けた。たとえば、武士の象徴である刀が必要でなくなった。さあて、大変。しかし、いつの世も〝ピンチはチャンス〟と機転をきかせる人がいる。<br />
　維新に先駆け、鎖国が解かれて欧風文化がどっと押し寄せてきた幕末日本。ラシャと呼ばれる洋装用の厚地ウール素材の導入とともに、仕立業も誕生したが、そのラシャを裁つラシャ切りはさみが日本人の手には重く使いづらいものだったらしい。そこで、日本人に使いやすいよう改良したのが、刀鍛冶職人だった吉田弥十郎、通称弥吉（１８５９年生まれ）。農具などを作る野鍛冶の家に生まれた弥吉さんは、12歳のときに刀鍛冶の弟子になったが、まもなく明治維新。廃刀令で刀が作れなくなったが、せっかく身につけた技術、これを生かして日本ならではの裁ちばさみを作ろうと思い立ったのだ。<br />
「一本の鉄を打ち伸ばす〝総火造り〟という刀鍛冶の技法で、日本人に使いやすい裁ちばさみを造り出したんです。いまも裁ちばさみを作っている家の多くが、弥吉さん系なんですよ」<br />
　日本の刃物技術は世界に誇れるもの。実は、海外ブランドが扱う高級品には、日本製も多いという。歌舞伎や文楽の狂言にも、お家の宝刀を巡る騒動が多いように、刀は武士の命。宝刀はすなわち美であり、切れ味である。その要望に応えてきた刀作りの歴史が、日本の刃物を磨き上げたのだ。<br />
　増太郎裁鋏製作所も、弥吉系の流れをくむ。素材はステンレスになったが、熱して叩いて、冷やしてはまた熱して叩き、素材を鍛えて刃を作る刀の技術は、変わらず受け継がれているという。</p>
<h3>後発メーカーゆえの品質への情熱</h3>
<p>　しかし、会社そのものは、仁男さんの父・増太郎さんが創業した後発のメーカーだ。<br />
　両親を早くに亡くした増太郎さんは、つてを頼って千葉県松戸市の裁ちばさみ工場で修業後、独立。最初は農家の納屋からのスタートだったという。が、時は高度成長期。作れば売れるという時代だったが、新参ということもあり、最初は荷解き用はさみなどを作っていたという。<br />
「弥吉さん直系の老舗のブランドメーカーがありがたがられましたからね」<br />
　その分、対応の早さや質、品数で勝負して、実績を積み上げていった。若い会社であることが、幸いもした。<br />
「東京のはさみ屋さんで、ステンレスを最初に取り入れたのはうちでしょう。ペーペーだから新しいことやらなくちゃいけないでしょ。でも、鉄より時間がかかるし、新しい設備もいるし、けっこう大変だったようです」<br />
　はさみは錆びるものという常識が、ステンレスの導入により変わってきた。医療用や食品用は、衛生面からも、いちはやくサビないステンレスばさみを使うようになったという。そうした需要により、増太郎のはさみは、もっと使いよいよう、切れ味いいよう、研鑽を重ねていく。また、多品種作るという対応のよさから、はさみを使う職人さんからの依頼も増えていった。つまりプロユースのはさみを多く手がけるようになったのだ。<br />
「職人さんは、道具にうるさいですからね。手に当たるよとか、文句もきます。それだけ手の感覚が鋭いんですよね」<br />
　そのために、ハンドルの輪の形や手当たりにも工夫を凝らし、長時間の作業でも使いやすいよう、作業に合った持ち手と刃先の重さのバランスを考えた。<br />
「たとえば、作業台に置いてはさみを滑らすようにして布を切る男物の服地には、刃先が重いものが使いやすいんです。で、布を浮かせて切る軽い女性用の布地なら、ハンドルが重いほうが使いやすい、という違いがあるんですよ」<br />
　また、裁ちばさみの場合は、布の流行に合わせて切れ味も変える。ストレッチ素材やシースルー素材などで研ぎ加減を変えていくのだ。耐熱素材や防弾素材など、切れにくい新素材が登場すれば、それに対応できる刃を磨ぎ出して作り上げる。<br />
「もう、いたちごっこです。さらに切れない素材が出てくるんですから（笑）」<br />
　なるほど、こうしたプロの難題をクリアしてきた負けん気の強い職人魂がベースにあるからこそ、増太郎のはさみは、家庭用のはさみでさえも、驚くような切れ味を持っているのだ。納得、納得。</p>
<h3>採算度外視の手の掛けようは感動的</h3>
<p>　いや、納得するのは早すぎでした。<br />
　おうかがいした日は、残念ながら鍛造や熱処理など、火を使う仕事が終わったばかりで、ダイナミックな作業を拝見することは叶わなかったけれど、研磨や仕上げの仕事を見るだけでも、いったいどれだけ手をかけているのかと気が遠くなるほど、細かい作業を繰り返していることに、驚かされた。<br />
「はさみ作りは、大きく分けると三つの作業に分かれるんです。まずは、鍛造または火造りで、形を作りつつ、鋼の分子密度を上げる工程。次は、熱処理または焼き入れと言って、鋼に硬さと粘りを加える工程。ここで刃持ちのよさが決まるんです。最後が研磨で、刃先を鋭くし、全体の形を整え、表面を美しく磨きます」<br />
　また、作業の随所で、刃のひずみの微調整を繰り返している。はさみの仕組みって、ご存じだろうか。実は深く考えたことがなく、ぜいぜい開いて閉じるときにすぱりと切れる、程度。<br />
「開いたときにはわずかに二枚の刃の間に隙間が生まれ、閉じるときに刃が重なることで切れる仕組みになっています。また、右刃は動かさず、左刃を親指で動かして切っているんですよ。だから、刃のひずみは命取り。これを最後まで微調整し続けるんです。そして、刃を止めるネジの締め方も重要なんですよ」<br />
　私が使っている増太郎のはさみのネジは、使い始めより少し緩めになってきているのだが、それゆえに動きが滑らかで、刃が重なる時はしっかり締まる感じがして、とても使いやすい。ああ、これが技なのだ。<br />
「最初は少しきつめに締めて、使ううちに滑らかになるよう考えているんです。かなり微妙に締めてますから、自分でねじ回しを使って締めたりはしないでくださいね」<br />
　了解です。<br />
　ところで、それこそはさみにはピンからキリまでさまざまある。１００円ショップで買えるものも。その差は、見ればなんとなくわかるのだが、しかし何かが決定的に違う気がする。<br />
「うちではひとつひとつ型取りしてから鍛造していきますが、安いものは、鋼板の段階で熱処理して柔らかくしたら、流れ作業でばんばん型抜きしていくんです。量産できるから、コストも下がります。つまり使いやすさや切れ味を求める作り方ではないわけです」<br />
　だけど、と仁男さんは言う。<br />
「そうやって作りながら、わかりやすいところだけきれいに仕上げている、見かけ倒しのはさみもあるんです。それが結構高い値段で売られているのは情けないですよね」<br />
　このところ、増太郎のはさみの中では、家庭用のはさみの売れ行きが伸びているという。いいものを求める消費者が育ってきたのだろう。もっとピッチを上げて作れればよいけれど、生産がなかなか追いつかないのが現状だ。<br />
「スピードを追い求めると、製品の質が落ちちゃうんです。もうだから、スピードじゃないって腹をくくってます。プロユースのはさみの切れ味を知っているから、それを家庭用でもキープしていきたいんです」<br />
　今必要なのは、ブランドではないと、改めて思い知らされる。妥協しない品質への追究こそ、使い手を惹きつける力になる。超情報社会の今、評判はまさに千里を走るからこそ、手抜きが命取りになるのだ。<br />
　余談だが、私が増太郎のはさみを父に自慢したところ、「前に買ったいいはさみがある。あれも切れ味いいんだぞ」と、愛用のはさみを持ち出してきた。それに打ち込まれた刻印を見て、私はにやっと笑った。なんとそのはさみも、増太郎印だったのだ。</p>
<p>【増太郎裁鋏製作所】<br />
1948年創業。初代の岩田増太郎さんは、「総火造り」の裁ちばさみを考案した吉田弥十郎系の親方のもとに弟子入り後、独立。裁ちばさみを始め、食品用、医療用、アパレル用などのプロユースのはさみから、家庭用のクラフトばさみやキッチンばさみまで手がける。その切れ味と使いやすさには定評がある。</p>
<p><a href="http://www.thecovernippon.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/05/122.jpg"><img src="http://www.thecovernippon.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/05/122-300x224.jpg" alt="12" title="12" width="300" height="224" class="alignnone size-medium wp-image-1792" /></a><br />
左は岩田増太郎さん（1924年生まれ）。右は息子の仁男さん（1956年生まれ）。年季の入った機械が並ぶ工場内だが、勘と経験で判断する部分が多く、また仕上げは念入りに手作業で進めている。採算度外視で手を掛ける姿勢が、よいはさみを生み出しているのだ。</p>
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		<item>
		<title>江戸型小紋　三橋京子さんを訪ねて</title>
		<link>http://www.thecovernippon.jp/mitsuhashikoubou_interview/</link>
		<comments>http://www.thecovernippon.jp/mitsuhashikoubou_interview/#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 30 Apr 2010 15:00:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[日本の手仕事]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.thecovernippon.jp/mitsuhashikoubou_interview/</guid>
		<description><![CDATA[江戸時代に花開いた、さまざまな型染め
　染め布は、織物よりも、気安くて身近な感じがする。
　経糸、緯糸の規律におのづから支配される織り物と異なり、自由闊達に柄を表現できるからかもしれない。中でも型染めは、和紙に彫られた柄を、布の上に繰り返し染めていく。その周期性の面白さ、心地よさ。町人文化が花開いた江戸時代に、この型染めが大きく発展した。
　型染めの筆頭はやはり江戸小紋だろう。遠目には無地に見える単色の小紋柄は、まず武士の裃を染め抜いた。武士の間では、家紋のように厳密に柄が決められたけれど、これが町人たちに広まると、遊び心満載の柄が生まれでる。福良雀が描かれたり大根とおろし金だったり、牛若丸と弁慶を思わせる絵解きの柄だったり。町人の洒落心が大いに発揮されたのだ。
　この型染めの技術は、インドから渡来した更紗を日本的にアレンジした和更紗や、琉球王朝の王族の衣裳を彩った紅型にも発展、さらには、藍による型染め浴衣である長板中型へと極まっていく。
　長板中型は、布の両面に同じ柄を染める難しい技法だ。というのも、ただ両面染めなのではなく、表と裏の柄がぴたりと重なることで、染め抜かれた白地が冴え冴えとする。かつて三橋工房は、この長板中型を専門に型染めを手がける工房だった。五代目の三橋榮三さんのとき、当時人気だった沖縄の紅型を東京風にアレンジできないか、という話が持ち込まれ、そこから、三橋工房独特の型小紋が始まったという。
型小紋の家に嫁ぎ、型小紋の職人へ
　現在、三橋工房を守るのは、三橋京子さん。
　京子さんの手元には、榮三さんが晩年に製作したという型見本〝絵刷り〟や染め見本帳が多数ある。江戸時代よりの柄もあるし、明治大正期のもの、また榮三さんが自ら考案した柄もある。小紋柄、紅型風、更紗風、浴衣、付け下げ、絵羽、振り袖・・・。実に多彩な仕事ぶり。
「こうして、注文がとれるようにしてあるんですよ。ああ、これはずいぶん売れた柄ですね」
と京子さんは懐かしそうにページを繰る。
　実は京子さんは、榮三さんの娘ではない。「大学を卒業したばかりの夫と結婚して」つまり榮三さんの長男のお嫁さんなのだ。
京子さんの実家もまた染め物に関わっていたこともあり、
結婚当初は
「こういう伝統の仕事にかかわれたらいいなとは思ってました。といっても、主人の手伝いができればいいかな、という程度でしたね」。
　工房ではたくさんの職人が働き、染めれば売れる、そんな時代だったという。
　が、10年後のある日、ご主人が急死。
「風邪ひとつ引かない丈夫な人だったのに、突然倒れて」。
　京子さんが、ご主人の代わりをつとめることになる。
　二人の子育ての真っ最中、世間では着物離れが始まり、工房の職人もぐっと減っていた。
しかし、そこで決意をした。型小紋の技術を身につけよう、と。
　当時、榮三さんはもう８０歳に手が届く年齢。
「義父は本当に職人気質で、技術も素晴らしかったんです。私は義父を型小紋の職人として全うさせてあげたかったんですよ」。
　しかし、30歳過ぎてからの遅い職人修業。
「義父に〝私もやりたい〟と言ったら、小さな板とヘラを渡されました。〝ヘラ習い〟をしろって」。
　型小紋の工程の中でも、要となる糊置きの作業。反物一反分を12mもの朴材でできた長板に張り、そこに型紙を載せ、ヘラで防染糊を置いては、型を次に送る。
「まずはヘラを手首で返せるようにしないと、作業ができないんで、その練習です。〝こうやるんだよ〟って最初に教えてはもらいましたけど、あとは自分でやるしかないですよね」
　子供たちが寝ついたあと、毎日繰り返しヘラ習いをした。
「しばらくして、〝実際にやってみろ〟って言われて」。
　しかし、反物の上での作業はたやすくない。
「昼間にやるくらいじゃ追いつかないんです。だから、夜、職人さんたちが帰った後、板場（糊置きする作業の部屋）の電気をつけて、ずいぶん練習しましたね」。
夜中、榮三さんがトイレに起きて、灯りに気づく。
「〝お前、なにやっているんだ〟って。そんなときは、〝寝られないから〟って、言い訳するんですけど」。
体を壊すからやめなさい、と心配されたが、
「でも、やりましたね。だって、そのくらいしないと体が覚えませんから。それに、自分で何でもできれば、一人になっても怖くないですし」。
だから、全工程を身につけた。
「ずいぶん失敗もしましたけど、それで覚えたことも多かったですねえ」。
長板中型の技術と、現代的な色彩センス
　三橋工房の板場は、女性の仕事場らしく整然と明るい。現在、職人は京子さんともうひとりがいるのみだ。小さなヘラを持ち、青く着色された米糊を型の上に置いていく。
「うちのヘラは、ドテベラ（または出刃ベラ）っていって、長板中型に使うものなんです」。
型付けは今も勉強中だと、京子さんは言う。
　小柄、大柄、動きのある柄など、型によっても癖が違う。気温や天気によって糊の使い勝手も変わる。総合的に判断し、米糊の固さを調整しなければいけないし、糊の固さでへら使いも変わってくる。
「義父は名人でしたね。私が始めた頃には、もうめったに型付けはしませんでしたけど、やればすごかった。ヘラの運びや持ち方がもう違うんです。世の中には知られていなかったけれど、腕はかなりのものでした。最近は、当時の義父の教えがよく甦ります。もっと聞いておけばよかったって思いますよね」。
かつての日本には、こうした知られざる名匠が多く存在していたのだ。
「今、型付けしているのは父が描いた図案を型紙にしたものです。いい秋草でしょ」。
　厳しい人で、家族のだれもが、彼の前では膝を崩せないほどだった。が、歌舞伎を愛し、三味線をたしなむ粋な江戸っ子。
「晩年は、板場の仕事ができなくなったので、日本画の先生を呼んで絵を習い、型の図案を考えていたんです。着物の柄は、遊び心や色気がないと描けませんよね」。
　遺された絵刷りや染め見本とともに、榮三さんとの日々は、京子さんの大切な財産となっている。
　ところで、三橋工房の糊置きは、二度重ね。そのほうがしっかり糊が置かれて万全の防染となり、白く染め抜かれた部分がくっきりと出る。これは、他所がまねようと思ってもなかなかできない秘伝の部分。
「どうして上手にできるの？って聞かれることもあるんですけど、うちはずっとこれでやってきてますから」
と笑う。　
　そもそもは長板中型という柄が表裏一体になる高度な重ね技を手がけてきた工房の、面目躍如たるところだろう。こうしたこだわりは目に見えないが、語らずとも伝わる存在感を醸し出す。
　技術は昔のままだが、明らかに変わっているのは、色使い。染め見本を眺めていると、ああ懐かしいなあと感じる。昭和の匂い。母の着物箪笥を開けたときにこぼれでる色調だ。
「色は時代時代の好みがありますよね。だから流行の場所に行ったり、街を歩く女性の服装をチェックしたりしてますよ」
　柄行きの多くは、伝統的なモチーフだが、多少の大小や配置に変化をつける。そんな柄を現代の色で表現すれば、とりもなおさず今の顔になるのだ。
「しばらく埋もれていて、また見直す柄もあるんです。握りばさみの柄は、工房を訪れたフランス人のかたが見つけ出して気に入ってくれたもの。柄自体は江戸生まれで、以来人気の柄なんですよ」。
　握りばさみは、日本特有のはさみの形。でもずらりと並べると、チューリップや魚にも見える可愛らしさ。江戸時代の人って、ほんとうにセンスがいいと思う。
水を求めて、戦後は江戸川区が型染めの中心地に
「今日はいい天気なんで、外に干した反物に地入れしますけど、いいですか」
と京子さん。
　型付けした反物は、糊が乾いたら板から外し、伸子と呼ばれる竹のヒゴで反物を張って干し、大豆粉と麩糊を水で溶いた呉汁を刷毛で塗って色止めの下地を作る。染めを施す前のひと作業だ。前もって地入れすることで、染料がしっかりと定着するのだ。
「最近、天候が不安定でしょう。天気がよいと思って干すと、急に雨が降ってきたり。目が離せません」。
　晴れた空、反物が一反、物干に結ばれたさまは不思議と懐かしい。
　浴衣の染めは、江戸時代には神田あたりが中心で、歌川広重の『名所江戸百景』の「神田紺屋町」では、青々と染められた浴衣が幟よろしくたなびく様を見ることができる。
　染め物は、蒸して染料を定着させた後、防染の米糊を落したり余分な染料を洗い流すなど、仕上げに水を求めるため、染め場は川の近くに自然と集まる。隅田川もしかり。三橋さんの工房がある江戸川区に浴衣や小紋の工房が多く集まったのは戦後で、東京大空襲の被害を受けた本所や向島など隅田川周辺の工房が、水を求めて荒川近くに移転してきたからだ。
　三橋工房も、榮三さんの代に、本所からここ江戸川区の西小松川に移転してきたのだった。かつては反物を川に晒す風景をそこここで見ることができたのだろう。しかし今は昔で、川沿いにも街にも高速が走る。それでもまだまだ雑草が生えた空き地や路地があるせいか、こうした伝統的な仕事もなじみ悪くは感じない。
　さて、外で二度地入れをして乾いたら、工房に反物を戻して地色を染める。そして、その上から色を差していく。色差しは座敷での作業。壁面に木製の建具をしつらえ、ぐるりと大きな輪の状態に反物が掛けられている。限られたスペースでも作業ができるよう反物を輪転させながら順次色挿しできるよう考えられた賢い設備だ。
　京子さんは小さい刷毛を使い、大きな椿の花にさっさっと色を加えていく。どの場所に何色を差すか、決まっているのだろうか。
「色の組み合わせは自由。これは浴衣なんですけど、一反バランスよく色を入れればいいんです。だいたい頭に入っていますね、仕立て上がったときに色が片寄らないような感じで」。
つまりは、同じ柄でも一点物の魅力があるわけだ。
縁が縁をつないで、今がある。
　こうした着物や帯の仕事が本来の三橋工房らしさで、榮三さんの存命中は、他のものを手がけることはまずなかった。しかし榮三さんが８９歳で亡くなると、京子さんは〝どうしよう、このまま続けていけるのかしら〟と大きな不安に襲われた。
「でもね、何軒か問屋さんが助けてくれたんです。また、しばらくして仕事仲間から、〝三橋さんはいい仕事してるんだから大丈夫〟って、デパートでの実演販売の仕事を勧められて。そうですね、デパートの職人展にはずいぶん出ましたね」
　この経験が、京子さんの仕事に変化をもたらした。
「職人展に出るようになって、お客さまの声をダイレクトに聞けるようになったでしょ。意見をいただければそれをまた生かせるし、褒められれば自信にもなります」
　そして、使い手の声から時代を感じ取り、高額商品ばかりではいけないと、着物や名古屋帯に比べてかなりリーズナブルな価格設定で、リバーシブルの半幅帯を作って並べることを思いつく。これが人気を呼び、セレクトショップやギャラリーのオーナーたちの目に留まった。いずれも女性オーナーで、確かな技術で現代的な色柄を形にする京子さんの仕事に共感した人ばかり。
　こうしたよい出合いが重なるほどに仕事のフィールドが広がり、京子さんもまた、呉服だけにとらわれない型小紋のありようを考えるようになっていったという。
　京子さんが本格的に型小紋の小物作りに取り組むようになるのは、8年前に始まった「えどがわ伝統工芸産学公プロジェクト」の存在が大きい。東京都江戸川区の伝統工芸者と美大生が組んで、現代の暮らしに即したグッドデザインの伝統工芸品を作ろうという試みだ。区からの呼びかけに京子さんは手を挙げ、プロジェクトに加わった。
　実は今回のセレクトも、このブロジェクトから生まれた日傘を目にしたのがきっかけだった。なんて見事な染めを使った素敵な日傘！と驚いたのだ。
「プロジェクト初年のヒット商品で、よく売れましたねえ」
　三橋工房の染めは、色の調子がとてもいい。
　そして、量産プリント技法では叶えられない、ふくよかな立体感がある。手間ひま掛けた美しさは、おのずと人の心を捉えるのだ。
　それにしても、京子さんの手がける商品は、良心的な値段設定だ。
「小さい規模でやっていますから、損はしない程度に、できるだけ価格を抑えて、多くの人に使ってほしいんですよ」
とからりと明るい笑顔で言う。
大変な時期もあったけれど、今こうして仕事が評価されて、企画展や取引の話は途切れることがない。
「人間、頑張るときに頑張れば、なんとかなるのかな。やめるのは簡単ですけどね、こうして続けてきてよかったと、つくづく思うんですよ」
【三橋工房】
創業は江戸寛政年間という歴史ある染め工場。六代目になる三橋京子さんは1946年生まれ。’68年に三橋家に嫁ぎ、’78年より五代目三橋榮三のもとで修業。江戸よりの型小紋の技法に沖縄紅型の華やかな色彩を取り入れた、独特の作風で知られる。江戸川区無形文化財。

型小紋職人の三橋京子さん。明るく前向き、そして柔軟な心の持ち主。だからこそ伝統的な技術を守りながら、現代的なアイテムを提案していけるのだろう。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>江戸時代に花開いた、さまざまな型染め</h3>
<p>　染め布は、織物よりも、気安くて身近な感じがする。<br />
　経糸、緯糸の規律におのづから支配される織り物と異なり、自由闊達に柄を表現できるからかもしれない。中でも型染めは、和紙に彫られた柄を、布の上に繰り返し染めていく。その周期性の面白さ、心地よさ。町人文化が花開いた江戸時代に、この型染めが大きく発展した。<br />
　型染めの筆頭はやはり江戸小紋だろう。遠目には無地に見える単色の小紋柄は、まず武士の裃を染め抜いた。武士の間では、家紋のように厳密に柄が決められたけれど、これが町人たちに広まると、遊び心満載の柄が生まれでる。福良雀が描かれたり大根とおろし金だったり、牛若丸と弁慶を思わせる絵解きの柄だったり。町人の洒落心が大いに発揮されたのだ。<br />
　この型染めの技術は、インドから渡来した更紗を日本的にアレンジした和更紗や、琉球王朝の王族の衣裳を彩った紅型にも発展、さらには、藍による型染め浴衣である長板中型へと極まっていく。<br />
　長板中型は、布の両面に同じ柄を染める難しい技法だ。というのも、ただ両面染めなのではなく、表と裏の柄がぴたりと重なることで、染め抜かれた白地が冴え冴えとする。かつて三橋工房は、この長板中型を専門に型染めを手がける工房だった。五代目の三橋榮三さんのとき、当時人気だった沖縄の紅型を東京風にアレンジできないか、という話が持ち込まれ、そこから、三橋工房独特の型小紋が始まったという。</p>
<h3>型小紋の家に嫁ぎ、型小紋の職人へ</h3>
<p>　現在、三橋工房を守るのは、三橋京子さん。<br />
　京子さんの手元には、榮三さんが晩年に製作したという型見本〝絵刷り〟や染め見本帳が多数ある。江戸時代よりの柄もあるし、明治大正期のもの、また榮三さんが自ら考案した柄もある。小紋柄、紅型風、更紗風、浴衣、付け下げ、絵羽、振り袖・・・。実に多彩な仕事ぶり。<br />
「こうして、注文がとれるようにしてあるんですよ。ああ、これはずいぶん売れた柄ですね」<br />
と京子さんは懐かしそうにページを繰る。<br />
　実は京子さんは、榮三さんの娘ではない。「大学を卒業したばかりの夫と結婚して」つまり榮三さんの長男のお嫁さんなのだ。<br />
京子さんの実家もまた染め物に関わっていたこともあり、<br />
結婚当初は<br />
「こういう伝統の仕事にかかわれたらいいなとは思ってました。といっても、主人の手伝いができればいいかな、という程度でしたね」。<br />
　工房ではたくさんの職人が働き、染めれば売れる、そんな時代だったという。<br />
　が、10年後のある日、ご主人が急死。<br />
「風邪ひとつ引かない丈夫な人だったのに、突然倒れて」。<br />
　京子さんが、ご主人の代わりをつとめることになる。<br />
　二人の子育ての真っ最中、世間では着物離れが始まり、工房の職人もぐっと減っていた。<br />
しかし、そこで決意をした。型小紋の技術を身につけよう、と。<br />
　当時、榮三さんはもう８０歳に手が届く年齢。<br />
「義父は本当に職人気質で、技術も素晴らしかったんです。私は義父を型小紋の職人として全うさせてあげたかったんですよ」。<br />
　しかし、30歳過ぎてからの遅い職人修業。<br />
「義父に〝私もやりたい〟と言ったら、小さな板とヘラを渡されました。〝ヘラ習い〟をしろって」。<br />
　型小紋の工程の中でも、要となる糊置きの作業。反物一反分を12mもの朴材でできた長板に張り、そこに型紙を載せ、ヘラで防染糊を置いては、型を次に送る。<br />
「まずはヘラを手首で返せるようにしないと、作業ができないんで、その練習です。〝こうやるんだよ〟って最初に教えてはもらいましたけど、あとは自分でやるしかないですよね」<br />
　子供たちが寝ついたあと、毎日繰り返しヘラ習いをした。<br />
「しばらくして、〝実際にやってみろ〟って言われて」。<br />
　しかし、反物の上での作業はたやすくない。<br />
「昼間にやるくらいじゃ追いつかないんです。だから、夜、職人さんたちが帰った後、板場（糊置きする作業の部屋）の電気をつけて、ずいぶん練習しましたね」。<br />
夜中、榮三さんがトイレに起きて、灯りに気づく。<br />
「〝お前、なにやっているんだ〟って。そんなときは、〝寝られないから〟って、言い訳するんですけど」。<br />
体を壊すからやめなさい、と心配されたが、<br />
「でも、やりましたね。だって、そのくらいしないと体が覚えませんから。それに、自分で何でもできれば、一人になっても怖くないですし」。<br />
だから、全工程を身につけた。<br />
「ずいぶん失敗もしましたけど、それで覚えたことも多かったですねえ」。</p>
<h3>長板中型の技術と、現代的な色彩センス</h3>
<p>　三橋工房の板場は、女性の仕事場らしく整然と明るい。現在、職人は京子さんともうひとりがいるのみだ。小さなヘラを持ち、青く着色された米糊を型の上に置いていく。<br />
「うちのヘラは、ドテベラ（または出刃ベラ）っていって、長板中型に使うものなんです」。<br />
型付けは今も勉強中だと、京子さんは言う。<br />
　小柄、大柄、動きのある柄など、型によっても癖が違う。気温や天気によって糊の使い勝手も変わる。総合的に判断し、米糊の固さを調整しなければいけないし、糊の固さでへら使いも変わってくる。<br />
「義父は名人でしたね。私が始めた頃には、もうめったに型付けはしませんでしたけど、やればすごかった。ヘラの運びや持ち方がもう違うんです。世の中には知られていなかったけれど、腕はかなりのものでした。最近は、当時の義父の教えがよく甦ります。もっと聞いておけばよかったって思いますよね」。<br />
かつての日本には、こうした知られざる名匠が多く存在していたのだ。<br />
「今、型付けしているのは父が描いた図案を型紙にしたものです。いい秋草でしょ」。<br />
　厳しい人で、家族のだれもが、彼の前では膝を崩せないほどだった。が、歌舞伎を愛し、三味線をたしなむ粋な江戸っ子。<br />
「晩年は、板場の仕事ができなくなったので、日本画の先生を呼んで絵を習い、型の図案を考えていたんです。着物の柄は、遊び心や色気がないと描けませんよね」。<br />
　遺された絵刷りや染め見本とともに、榮三さんとの日々は、京子さんの大切な財産となっている。<br />
　ところで、三橋工房の糊置きは、二度重ね。そのほうがしっかり糊が置かれて万全の防染となり、白く染め抜かれた部分がくっきりと出る。これは、他所がまねようと思ってもなかなかできない秘伝の部分。<br />
「どうして上手にできるの？って聞かれることもあるんですけど、うちはずっとこれでやってきてますから」<br />
と笑う。　<br />
　そもそもは長板中型という柄が表裏一体になる高度な重ね技を手がけてきた工房の、面目躍如たるところだろう。こうしたこだわりは目に見えないが、語らずとも伝わる存在感を醸し出す。<br />
　技術は昔のままだが、明らかに変わっているのは、色使い。染め見本を眺めていると、ああ懐かしいなあと感じる。昭和の匂い。母の着物箪笥を開けたときにこぼれでる色調だ。<br />
「色は時代時代の好みがありますよね。だから流行の場所に行ったり、街を歩く女性の服装をチェックしたりしてますよ」<br />
　柄行きの多くは、伝統的なモチーフだが、多少の大小や配置に変化をつける。そんな柄を現代の色で表現すれば、とりもなおさず今の顔になるのだ。<br />
「しばらく埋もれていて、また見直す柄もあるんです。握りばさみの柄は、工房を訪れたフランス人のかたが見つけ出して気に入ってくれたもの。柄自体は江戸生まれで、以来人気の柄なんですよ」。<br />
　握りばさみは、日本特有のはさみの形。でもずらりと並べると、チューリップや魚にも見える可愛らしさ。江戸時代の人って、ほんとうにセンスがいいと思う。</p>
<h3>水を求めて、戦後は江戸川区が型染めの中心地に</h3>
<p>「今日はいい天気なんで、外に干した反物に地入れしますけど、いいですか」<br />
と京子さん。<br />
　型付けした反物は、糊が乾いたら板から外し、伸子と呼ばれる竹のヒゴで反物を張って干し、大豆粉と麩糊を水で溶いた呉汁を刷毛で塗って色止めの下地を作る。染めを施す前のひと作業だ。前もって地入れすることで、染料がしっかりと定着するのだ。<br />
「最近、天候が不安定でしょう。天気がよいと思って干すと、急に雨が降ってきたり。目が離せません」。<br />
　晴れた空、反物が一反、物干に結ばれたさまは不思議と懐かしい。<br />
　浴衣の染めは、江戸時代には神田あたりが中心で、歌川広重の『名所江戸百景』の「神田紺屋町」では、青々と染められた浴衣が幟よろしくたなびく様を見ることができる。<br />
　染め物は、蒸して染料を定着させた後、防染の米糊を落したり余分な染料を洗い流すなど、仕上げに水を求めるため、染め場は川の近くに自然と集まる。隅田川もしかり。三橋さんの工房がある江戸川区に浴衣や小紋の工房が多く集まったのは戦後で、東京大空襲の被害を受けた本所や向島など隅田川周辺の工房が、水を求めて荒川近くに移転してきたからだ。<br />
　三橋工房も、榮三さんの代に、本所からここ江戸川区の西小松川に移転してきたのだった。かつては反物を川に晒す風景をそこここで見ることができたのだろう。しかし今は昔で、川沿いにも街にも高速が走る。それでもまだまだ雑草が生えた空き地や路地があるせいか、こうした伝統的な仕事もなじみ悪くは感じない。<br />
　さて、外で二度地入れをして乾いたら、工房に反物を戻して地色を染める。そして、その上から色を差していく。色差しは座敷での作業。壁面に木製の建具をしつらえ、ぐるりと大きな輪の状態に反物が掛けられている。限られたスペースでも作業ができるよう反物を輪転させながら順次色挿しできるよう考えられた賢い設備だ。<br />
　京子さんは小さい刷毛を使い、大きな椿の花にさっさっと色を加えていく。どの場所に何色を差すか、決まっているのだろうか。<br />
「色の組み合わせは自由。これは浴衣なんですけど、一反バランスよく色を入れればいいんです。だいたい頭に入っていますね、仕立て上がったときに色が片寄らないような感じで」。<br />
つまりは、同じ柄でも一点物の魅力があるわけだ。</p>
<h3>縁が縁をつないで、今がある。</h3>
<p>　こうした着物や帯の仕事が本来の三橋工房らしさで、榮三さんの存命中は、他のものを手がけることはまずなかった。しかし榮三さんが８９歳で亡くなると、京子さんは〝どうしよう、このまま続けていけるのかしら〟と大きな不安に襲われた。<br />
「でもね、何軒か問屋さんが助けてくれたんです。また、しばらくして仕事仲間から、〝三橋さんはいい仕事してるんだから大丈夫〟って、デパートでの実演販売の仕事を勧められて。そうですね、デパートの職人展にはずいぶん出ましたね」<br />
　この経験が、京子さんの仕事に変化をもたらした。<br />
「職人展に出るようになって、お客さまの声をダイレクトに聞けるようになったでしょ。意見をいただければそれをまた生かせるし、褒められれば自信にもなります」<br />
　そして、使い手の声から時代を感じ取り、高額商品ばかりではいけないと、着物や名古屋帯に比べてかなりリーズナブルな価格設定で、リバーシブルの半幅帯を作って並べることを思いつく。これが人気を呼び、セレクトショップやギャラリーのオーナーたちの目に留まった。いずれも女性オーナーで、確かな技術で現代的な色柄を形にする京子さんの仕事に共感した人ばかり。<br />
　こうしたよい出合いが重なるほどに仕事のフィールドが広がり、京子さんもまた、呉服だけにとらわれない型小紋のありようを考えるようになっていったという。<br />
　京子さんが本格的に型小紋の小物作りに取り組むようになるのは、8年前に始まった「えどがわ伝統工芸産学公プロジェクト」の存在が大きい。東京都江戸川区の伝統工芸者と美大生が組んで、現代の暮らしに即したグッドデザインの伝統工芸品を作ろうという試みだ。区からの呼びかけに京子さんは手を挙げ、プロジェクトに加わった。<br />
　実は今回のセレクトも、このブロジェクトから生まれた日傘を目にしたのがきっかけだった。なんて見事な染めを使った素敵な日傘！と驚いたのだ。<br />
「プロジェクト初年のヒット商品で、よく売れましたねえ」<br />
　三橋工房の染めは、色の調子がとてもいい。<br />
　そして、量産プリント技法では叶えられない、ふくよかな立体感がある。手間ひま掛けた美しさは、おのずと人の心を捉えるのだ。<br />
　それにしても、京子さんの手がける商品は、良心的な値段設定だ。<br />
「小さい規模でやっていますから、損はしない程度に、できるだけ価格を抑えて、多くの人に使ってほしいんですよ」<br />
とからりと明るい笑顔で言う。<br />
大変な時期もあったけれど、今こうして仕事が評価されて、企画展や取引の話は途切れることがない。<br />
「人間、頑張るときに頑張れば、なんとかなるのかな。やめるのは簡単ですけどね、こうして続けてきてよかったと、つくづく思うんですよ」</p>
<p>【三橋工房】<br />
創業は江戸寛政年間という歴史ある染め工場。六代目になる三橋京子さんは1946年生まれ。’68年に三橋家に嫁ぎ、’78年より五代目三橋榮三のもとで修業。江戸よりの型小紋の技法に沖縄紅型の華やかな色彩を取り入れた、独特の作風で知られる。江戸川区無形文化財。</p>
<p><a href="http://www.thecovernippon.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/12.jpg"><img class="alignnone size-medium wp-image-1722" title="12" src="http://www.thecovernippon.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/12-300x224.jpg" alt="12" width="300" height="224" /></a><br />
型小紋職人の三橋京子さん。明るく前向き、そして柔軟な心の持ち主。だからこそ伝統的な技術を守りながら、現代的なアイテムを提案していけるのだろう。</p>
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		<item>
		<title>田中敦子　プロフィール</title>
		<link>http://www.thecovernippon.jp/tanakaatsuko/</link>
		<comments>http://www.thecovernippon.jp/tanakaatsuko/#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 01 Apr 2010 08:48:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[店舗情報]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.thecovernippon.jp/tanakaatsuko/</guid>
		<description><![CDATA[1961年東京生まれ。‘84年、早稲田大学第一文学部卒。’86年主婦の友社入社、雑誌編集部勤務ののち1996年退社、フリーランスに。工芸、染織、きものを中心に、取材、執筆、編集をおこなう。雑誌「和樂」（小学館）の創刊、編集に参画。また「七緒」（プレジデント社）の編集および監修を担当。著書に『江戸の手わざ　ちゃんとした人ちゃんとしたもの』（文化出版局）、『きものの花咲くころ』（主婦の友社）他。現在、JR東海、山陽新幹線車内誌『ひととき』にて「粋を継ぐわざ」、プレジデント社『七緒』にて「奔放着物クロニクル」を連載中。昨今は、手仕事展のプロデュースも手がける。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>1961年東京生まれ。‘84年、早稲田大学第一文学部卒。’86年主婦の友社入社、雑誌編集部勤務ののち1996年退社、フリーランスに。工芸、染織、きものを中心に、取材、執筆、編集をおこなう。雑誌「和樂」（小学館）の創刊、編集に参画。また「七緒」（プレジデント社）の編集および監修を担当。著書に『江戸の手わざ　ちゃんとした人ちゃんとしたもの』（文化出版局）、『きものの花咲くころ』（主婦の友社）他。現在、JR東海、山陽新幹線車内誌『ひととき』にて「粋を継ぐわざ」、プレジデント社『七緒』にて「奔放着物クロニクル」を連載中。昨今は、手仕事展のプロデュースも手がける。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>箱根寄木細工　露木清勝さんを訪ねて</title>
		<link>http://www.thecovernippon.jp/tsuyukimokkosho_interview/</link>
		<comments>http://www.thecovernippon.jp/tsuyukimokkosho_interview/#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 31 Mar 2010 15:00:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[日本の手仕事]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.thecovernippon.jp/yosegi_interview/</guid>
		<description><![CDATA[木工の長い歴史があればこその寄木細工
　露木木工所の創業者である露木清吉氏は、箱根寄木細工発祥の地、箱根町の畑宿生まれ。ここで、寄木細工の創始者である石川仁兵衛氏の孫、仁三郎氏に師事した後、小田原市内の早川で、独立したという。大正15年（１９２６年）のことだった。
　箱根が寄木細工の本拠地というイメージがあったから、畑宿を中心に寄木細工が広まり、小田原も範囲内になっていったのかと思っていたが、
「実は、このあたりは平安時代から木工が盛んで、お椀などの挽き物は、ここが本拠地なんですよ」
とは、露木木工所の三代目で木工家でもある露木清勝さん。
　もともと箱根は材木の調達地。その麓である小田原で、木工が栄えたのだ。露木木工所の創業の地であり、今は寄木ギャラリーになっている早川の周辺には、平安時代より木工業者の信奉を集めた紀伊神社もある。木地挽きの祖・惟喬親王を祀る神社で、土地の人からは「木の宮さん」と親しまれているそうだ。
　木工の長い歴史があったからこそ、寄木細工という新しい発想が江戸時代に生まれ、飛躍的に発展したのだろう。そして、露木家の初代が創業の地として早川を選んだのも、確かな理由あってのことだったのだ。
静岡の寄木技法の導入で今の姿に発展
　露木さんのギャラリーでは、現代の作品だけでなく、初代清吉氏、二代目清次氏の作品や、また江戸時代の初期寄木作品も見ることができる。
　訪問した際には、江戸時代末期に作られたというシンプルなお盆が展示されていた。乱寄木に細かい単位寄木が象嵌されている。
「初期の箱根寄木細工は、このタイプが多いんです。五ミリほどの厚みの部材を寄せていて、漆塗装もしています」
　漆塗装してしまえば、樹木それぞれの色の差異はわかりにくくなる。
「当時は、色よりも、模様の面白さで喜ばれたんでしょうね」
　実はこのお盆、『Nipponと暮らす』４月号で紹介している角盆のヒントになったもの。いにしえの作品が持つ普遍的な造形美に、現代の暮らしに感覚と取り入れて生まれた、温故知新の作なのだ。
　では、現在のような〝小寄木〟と呼ばれる連続模様が生まれたのは、いつ頃なのだろう。
「寄せた木を薄く削れる鉋が発達した明治に入ってからのようです」
と露木さん。
　箱根の寄木細工は、東海道を往来する旅人たちの土産物として広まった。一方、当時の静岡では、小寄木で家具を作っていた。地理的にそう遠くない静岡の技法が箱根に伝わり、しかも大鉋という広い面を一気に薄く削ることができる鉋が生まれたことで、ズク作りと呼ばれる、薄く削った経木状のものを木箱に化粧貼りする寄木細工が誕生したのだった。
「ズクっていう呼び名には二説あるんです。ひとつは、鉋屑のクズを、逆さにしたというもの。もうひとつは透けるように薄い〝透く〟が訛ったという説。どっちでしょうね」
　職人仕事は口伝が多く、文献として残ることは少ない。露木さんは、埋もれた寄木細工の歴史をもっと調べていかなければいけないと、考えている。
「それにしても、江戸時代の寄木細工はすごいですよね。見てください、この寄木に使っている部材の薄さ。今みたいな鉋がなくて、よく削っていたと思いますよ」
削って削って、寄せて寄せて。
　露木さんに、ズク作りの実際を見せていただいた。
　製作する寄木の模様が決まったら、必要なパーツの形に荒く丸鋸盤で削るところから始まる。ここは機械の手を借りるが、その後の作業は、ひたすら手仕事だ。シンプルな伝統柄である鱗文を寄せてもらったのだが、鱗を表す二等辺直角三角形が連続するこの柄は、まず部材を機械でカットしてから、手鉋でさらに整えるという二段構え。白と茶色の二色の三角形の底辺同士を合わせて接着し、正方形にする。
「これをゴムで固定して乾燥させます。これをまた組み合わせるんです。二つ、四つ、八つ、とどんどん張り合わせてブロックを大きくし、ズク作りのための種板ができるわけなんです。部材作りを丁寧にしているのは、そうしないときれいな連続模様にならないからなんです」
　なんという地道で繊細な作業。
「ほとんど手仕事ですからね。根気は必要ですよ」
と露木さんは、にこやかに言う。
　柄には緻密な計算を必要とする複雑なものもある。多色使いのものもある。間違えることはないのだろうか？
「ありますよ。削る段になって、しまった、ということも。でも、そこからまた新しい発想が生まれたりもしますね」
　露木さんは、伝統の寄木細工だけでなく、現代の暮らしに根付くクラフト的な作品も多く生み出している。伝統にしがみついていては寄木細工の未来はない、という気持ちが若い頃からあったのだ。そのために、さまざまなアートに触れるなど、感性を磨いてきた。
「寄木細工は、柄の幾何学構造が分かった上でないと造形を考えにくいので、デザイナーでは難しい部分があるんですよね」
　実際に手を動かし、失敗しながら、寄木の本質を理解している露木さんだからこそ考えられる作品は、お土産の域を超え、幅広い層に支持されている
ズク作りとムク作り
　おそらく多くの人は、箱根や小田原のお土産店で、ズク作りのお盆や茶托、文箱などの小物を見たことがあるはず。もちろん、忘れちゃいけない、パズルめいた秘密箱も。
　これらの品々に見られる寄木模様は、鱗、市松、麻の葉、矢羽根、毘沙門亀甲、紗綾型、青海波など、日本の伝統文様だ。
　寄木細工そのものは、海外にもあるけれど、これほど文様のバリエ−ションがあり、しかも薄いズクにして木箱に貼るアイディアは、箱根寄木細工独特のもの。
「もともと箱根は樹種が多彩なこともあり、木工芸が盛んな土地。木工の端材がたくさん出ることから、寄木細工を思いついたんでしょうね。ここからさらに、材料を有効に生かすアイディアとしてズク作りが生まれたんです。頭いいですよねえ」
　模様のヒントは着物。寄木に応用しやすい小紋の連続柄が好まれた。その多くは吉祥を意味するもの。縁起もよく、お土産品にはぴったりだったのだろう。値段も抑えめですむ。が、最近は、お土産的なズク作りとはひと味違う高級感やモダンさをもつ、ムク作りの寄木細工も増えている。
「部材を寄せた種板を轆轤挽きしたり、カットしたりするのがムク作りです」
　もともと木工の長い歴史を持つ地なのだ。お椀などを手がける木地師の力を借りて、お盆やボウルなどを製作。値段は相応になるが、木の存在感たっぷりの作品は、寄木の可能性を広げる力を持っている。
すべて天然自然の樹木の色
　箱根寄木細工で驚かされるのは、模様を構成する木の色が、すべて天然自然の木の色だということだ。かつては身近な樹木を使っていたが、箱根が国立公園になったこともあり、みだりに伐採できないことから、今は国産材に加え、外国材も一部使っている。
　基本は、木目の詰まった広葉樹。針葉樹は、夏目と冬目があり、使いにくいという。色を求めて東南アジアやアフリカの木を使うことも。
「でも、国産材のほうが使いやすいですね。朴の木とか桂とか。外国材は目が粗くて、薄く削るのが大変なんです」
　黄色はニガキや漆、白はミズキやマユミ、黒は桂神代、青は朴の木など。茶色い樹皮に覆われた表からは見えない木の個性。
「赤はアフリカの木でハドゥク。日本には赤い木がなかなかなくて、昔のものでは時折赤く染めた木を使ったものも見受けられます」
　なお、神代とは、埋もれ木のことで、ほかにケヤキやクリの神代もある。
　露木木工所の工場は、現在、小田原市内の酒匂川沿い、木工団地の中にある。団地内には木工塗装の会社もあり、仕事効率がいい場所だ。二代目のときにここに移転し、機械も導入した。寄木細工は家内工業が多いのだが、露木木工所は、四代目となる長男の清高さんを含め、10人の従業員がいる。露木さんのがんばりで、お土産では終わらない寄木細工を生み出し、販路を広げているからこそだろう。
　工場の向かいには倉庫がある。寄木細工の部材になる材木のストックヤードだ。中を見せてもらった。板状のさまざまな木がところ狭しと立てかけられている。露木さんは、「これはニガキ、あ、これは桂神代です」と板を撫でながら教えてくれる。作業の時は集中で引き締まっていた顔が、ゆるりとほころぶ。
「この板のすべてを使うのではなく、赤太と呼ばれる芯のほうの古い部分を使います。若い白太は捨てるんです」
　でも、捨てるには惜しく、露木さんはずいぶんと貯めてきた。何かに使える。そんな気持ちからだった。そして、この春とうとう日本クラフト展で、白太使いの作品を発表した。
「ずっと何かに使えると思いながら使えなかったんですけど、白太は色に変化があって面白いんです」
　一度形にすれば、そこから始まるコトがある。寄木細工の創始者である仁兵衛さんが端材を生かそうと寄木を思いついたように、露木さんもまた、捨られる運命の材を惜しみ、実用化させた。これこそ、箱根寄木細工が受け継いできた心なのだと思い知る。
【露木木工所】
１９２６年創業、箱根寄木細工の木工所。現在、三代目の露木清勝氏が代表を務め、伝統的な寄木細工をベースに、四代目の清高氏とともに、新時代の寄木細工を提案している。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>木工の長い歴史があればこその寄木細工</h3>
<p>　露木木工所の創業者である露木清吉氏は、箱根寄木細工発祥の地、箱根町の畑宿生まれ。ここで、寄木細工の創始者である石川仁兵衛氏の孫、仁三郎氏に師事した後、小田原市内の早川で、独立したという。大正15年（１９２６年）のことだった。<br />
　箱根が寄木細工の本拠地というイメージがあったから、畑宿を中心に寄木細工が広まり、小田原も範囲内になっていったのかと思っていたが、<br />
「実は、このあたりは平安時代から木工が盛んで、お椀などの挽き物は、ここが本拠地なんですよ」<br />
とは、露木木工所の三代目で木工家でもある露木清勝さん。<br />
　もともと箱根は材木の調達地。その麓である小田原で、木工が栄えたのだ。露木木工所の創業の地であり、今は寄木ギャラリーになっている早川の周辺には、平安時代より木工業者の信奉を集めた紀伊神社もある。木地挽きの祖・惟喬親王を祀る神社で、土地の人からは「木の宮さん」と親しまれているそうだ。<br />
　木工の長い歴史があったからこそ、寄木細工という新しい発想が江戸時代に生まれ、飛躍的に発展したのだろう。そして、露木家の初代が創業の地として早川を選んだのも、確かな理由あってのことだったのだ。</p>
<h3>静岡の寄木技法の導入で今の姿に発展</h3>
<p>　露木さんのギャラリーでは、現代の作品だけでなく、初代清吉氏、二代目清次氏の作品や、また江戸時代の初期寄木作品も見ることができる。<br />
　訪問した際には、江戸時代末期に作られたというシンプルなお盆が展示されていた。乱寄木に細かい単位寄木が象嵌されている。<br />
「初期の箱根寄木細工は、このタイプが多いんです。五ミリほどの厚みの部材を寄せていて、漆塗装もしています」<br />
　漆塗装してしまえば、樹木それぞれの色の差異はわかりにくくなる。<br />
「当時は、色よりも、模様の面白さで喜ばれたんでしょうね」<br />
　実はこのお盆、『Nipponと暮らす』４月号で紹介している角盆のヒントになったもの。いにしえの作品が持つ普遍的な造形美に、現代の暮らしに感覚と取り入れて生まれた、温故知新の作なのだ。<br />
　では、現在のような〝小寄木〟と呼ばれる連続模様が生まれたのは、いつ頃なのだろう。<br />
「寄せた木を薄く削れる鉋が発達した明治に入ってからのようです」<br />
と露木さん。<br />
　箱根の寄木細工は、東海道を往来する旅人たちの土産物として広まった。一方、当時の静岡では、小寄木で家具を作っていた。地理的にそう遠くない静岡の技法が箱根に伝わり、しかも大鉋という広い面を一気に薄く削ることができる鉋が生まれたことで、ズク作りと呼ばれる、薄く削った経木状のものを木箱に化粧貼りする寄木細工が誕生したのだった。<br />
「ズクっていう呼び名には二説あるんです。ひとつは、鉋屑のクズを、逆さにしたというもの。もうひとつは透けるように薄い〝透く〟が訛ったという説。どっちでしょうね」<br />
　職人仕事は口伝が多く、文献として残ることは少ない。露木さんは、埋もれた寄木細工の歴史をもっと調べていかなければいけないと、考えている。<br />
「それにしても、江戸時代の寄木細工はすごいですよね。見てください、この寄木に使っている部材の薄さ。今みたいな鉋がなくて、よく削っていたと思いますよ」</p>
<h3>削って削って、寄せて寄せて。</h3>
<p>　露木さんに、ズク作りの実際を見せていただいた。<br />
　製作する寄木の模様が決まったら、必要なパーツの形に荒く丸鋸盤で削るところから始まる。ここは機械の手を借りるが、その後の作業は、ひたすら手仕事だ。シンプルな伝統柄である鱗文を寄せてもらったのだが、鱗を表す二等辺直角三角形が連続するこの柄は、まず部材を機械でカットしてから、手鉋でさらに整えるという二段構え。白と茶色の二色の三角形の底辺同士を合わせて接着し、正方形にする。<br />
「これをゴムで固定して乾燥させます。これをまた組み合わせるんです。二つ、四つ、八つ、とどんどん張り合わせてブロックを大きくし、ズク作りのための種板ができるわけなんです。部材作りを丁寧にしているのは、そうしないときれいな連続模様にならないからなんです」<br />
　なんという地道で繊細な作業。<br />
「ほとんど手仕事ですからね。根気は必要ですよ」<br />
と露木さんは、にこやかに言う。<br />
　柄には緻密な計算を必要とする複雑なものもある。多色使いのものもある。間違えることはないのだろうか？<br />
「ありますよ。削る段になって、しまった、ということも。でも、そこからまた新しい発想が生まれたりもしますね」<br />
　露木さんは、伝統の寄木細工だけでなく、現代の暮らしに根付くクラフト的な作品も多く生み出している。伝統にしがみついていては寄木細工の未来はない、という気持ちが若い頃からあったのだ。そのために、さまざまなアートに触れるなど、感性を磨いてきた。<br />
「寄木細工は、柄の幾何学構造が分かった上でないと造形を考えにくいので、デザイナーでは難しい部分があるんですよね」<br />
　実際に手を動かし、失敗しながら、寄木の本質を理解している露木さんだからこそ考えられる作品は、お土産の域を超え、幅広い層に支持されている</p>
<h3>ズク作りとムク作り</h3>
<p>　おそらく多くの人は、箱根や小田原のお土産店で、ズク作りのお盆や茶托、文箱などの小物を見たことがあるはず。もちろん、忘れちゃいけない、パズルめいた秘密箱も。<br />
　これらの品々に見られる寄木模様は、鱗、市松、麻の葉、矢羽根、毘沙門亀甲、紗綾型、青海波など、日本の伝統文様だ。<br />
　寄木細工そのものは、海外にもあるけれど、これほど文様のバリエ−ションがあり、しかも薄いズクにして木箱に貼るアイディアは、箱根寄木細工独特のもの。<br />
「もともと箱根は樹種が多彩なこともあり、木工芸が盛んな土地。木工の端材がたくさん出ることから、寄木細工を思いついたんでしょうね。ここからさらに、材料を有効に生かすアイディアとしてズク作りが生まれたんです。頭いいですよねえ」<br />
　模様のヒントは着物。寄木に応用しやすい小紋の連続柄が好まれた。その多くは吉祥を意味するもの。縁起もよく、お土産品にはぴったりだったのだろう。値段も抑えめですむ。が、最近は、お土産的なズク作りとはひと味違う高級感やモダンさをもつ、ムク作りの寄木細工も増えている。<br />
「部材を寄せた種板を轆轤挽きしたり、カットしたりするのがムク作りです」<br />
　もともと木工の長い歴史を持つ地なのだ。お椀などを手がける木地師の力を借りて、お盆やボウルなどを製作。値段は相応になるが、木の存在感たっぷりの作品は、寄木の可能性を広げる力を持っている。</p>
<h3>すべて天然自然の樹木の色</h3>
<p>　箱根寄木細工で驚かされるのは、模様を構成する木の色が、すべて天然自然の木の色だということだ。かつては身近な樹木を使っていたが、箱根が国立公園になったこともあり、みだりに伐採できないことから、今は国産材に加え、外国材も一部使っている。<br />
　基本は、木目の詰まった広葉樹。針葉樹は、夏目と冬目があり、使いにくいという。色を求めて東南アジアやアフリカの木を使うことも。<br />
「でも、国産材のほうが使いやすいですね。朴の木とか桂とか。外国材は目が粗くて、薄く削るのが大変なんです」<br />
　黄色はニガキや漆、白はミズキやマユミ、黒は桂神代、青は朴の木など。茶色い樹皮に覆われた表からは見えない木の個性。<br />
「赤はアフリカの木でハドゥク。日本には赤い木がなかなかなくて、昔のものでは時折赤く染めた木を使ったものも見受けられます」<br />
　なお、神代とは、埋もれ木のことで、ほかにケヤキやクリの神代もある。<br />
　露木木工所の工場は、現在、小田原市内の酒匂川沿い、木工団地の中にある。団地内には木工塗装の会社もあり、仕事効率がいい場所だ。二代目のときにここに移転し、機械も導入した。寄木細工は家内工業が多いのだが、露木木工所は、四代目となる長男の清高さんを含め、10人の従業員がいる。露木さんのがんばりで、お土産では終わらない寄木細工を生み出し、販路を広げているからこそだろう。<br />
　工場の向かいには倉庫がある。寄木細工の部材になる材木のストックヤードだ。中を見せてもらった。板状のさまざまな木がところ狭しと立てかけられている。露木さんは、「これはニガキ、あ、これは桂神代です」と板を撫でながら教えてくれる。作業の時は集中で引き締まっていた顔が、ゆるりとほころぶ。<br />
「この板のすべてを使うのではなく、赤太と呼ばれる芯のほうの古い部分を使います。若い白太は捨てるんです」<br />
　でも、捨てるには惜しく、露木さんはずいぶんと貯めてきた。何かに使える。そんな気持ちからだった。そして、この春とうとう日本クラフト展で、白太使いの作品を発表した。<br />
「ずっと何かに使えると思いながら使えなかったんですけど、白太は色に変化があって面白いんです」<br />
　一度形にすれば、そこから始まるコトがある。寄木細工の創始者である仁兵衛さんが端材を生かそうと寄木を思いついたように、露木さんもまた、捨られる運命の材を惜しみ、実用化させた。これこそ、箱根寄木細工が受け継いできた心なのだと思い知る。</p>
<p>【露木木工所】<br />
１９２６年創業、箱根寄木細工の木工所。現在、三代目の露木清勝氏が代表を務め、伝統的な寄木細工をベースに、四代目の清高氏とともに、新時代の寄木細工を提案している。</p>
<div id="attachment_1665" class="wp-caption alignright" style="width: 310px"><a href="http://www.thecovernippon.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/03/E1.jpg"><img src="http://www.thecovernippon.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/03/E1-300x200.jpg" alt="寄木に使う材をストックした倉庫の中で、木の説明をする露木清勝さん。これらの木それぞれに色があり、寄せて、鉋やヤスリ掛けし、塗装することで、冴え冴えと色が表れる。自然の色は、人の手により輝きを得ているのだった。" title="E" width="300" height="200" class="size-medium wp-image-1665" /></a><p class="wp-caption-text">寄木に使う材をストックした倉庫の中で、木の説明をする露木清勝さん。これらの木それぞれに色があり、寄せて、鉋やヤスリ掛けし、塗装することで、冴え冴えと色が表れる。自然の色は、人の手により輝きを得ているのだった。</p></div>
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		</item>
		<item>
		<title>薩摩彫金　錫製　花小皿</title>
		<link>http://www.thecovernippon.jp/kiharaseisakusho_interview/</link>
		<comments>http://www.thecovernippon.jp/kiharaseisakusho_interview/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 28 Feb 2010 15:00:50 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[お土産]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.thecovernippon.jp/kiharaseisakusho_interview/</guid>
		<description><![CDATA[磨崖仏やかくれ念仏など、古来より仏教と密接な関わりあいのある鹿児島県南九州市川辺町。川辺と仏教文化の繋がりは平安時代、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落人が祖先供養のために磨崖仏を刻んだことがはじまりと伝えられ、以来 明治時代に至るまでに梵字や五輪搭・宝印搭の供養搭・仏像など全部で193体が残されている。川辺の人々の信仰心はやがて産業として地域に根づき、12世紀頃から作られた川辺仏壇は昭和50年に国の伝統的工芸品に指定された。その仏壇作りで培われてきた装飾金具の技を進化させたモノづくりをしている木原製作所の代表である木原史裕さんにお話を伺いました。
仏教文化が色濃く残る川辺の町
川辺町では古くから仏教文化が根付いている地域だそうですね。木原さんが子供の頃はどんな風景だったのでしょうか？
そうですね。川辺町は「薩摩の小京都」と呼ばれる知覧町に隣接していて、町内には清水、花園、小栗栖など京都にちなんだ地名もあります。この町には仏具の職人が多く集まっている土地柄ですから・・・ウチの両隣も仏壇屋さんですし、いつも金槌で叩いているトントンという音が響いている環境で育ちました。小学校の夏休みの工作なんかは、普通の家ではないような工具を使って宿題を作っていましたね（笑）
町のいたるところに仏壇に関わる工房があり、その中で育った木原さん。会社は昭和32年に創業。そこには戦後の時代背景があった。
当時は戦後経済復興の時期でしたので、戦没者の方のご供養もあり、仏壇の需要が増えていた時代でした。そういった背景のなかで木原製作所は創業しました。私自身は、卒業後、やはり一度は別の世界を見てみたいと思っていたこともあり別の仕事をしていましたが、28歳の頃に家業に入りました。ウチの仕事は工業製品や仏壇金具が全体の9割を占めていますので、実はインテリア雑貨は1割にも満たないんですよ。
仏壇作りの技を活かした製品づくりへの挑戦
川辺仏壇は、杉、松などを木地の材料とし、天然本漆塗りの後、純金箔や純金粉を使用し仕上げを施す。木地、宮殿、彫刻、金具、蒔絵、塗り、仕上げの各部門の職人たちの分業体制により製作され、小型の仏壇であることも特徴のひとつ。木原製作所では装飾金具を専門に行なっており、その技を活かしたインテリア雑貨が、今回ご紹介する錫製の花小皿だ。
なぜインテリア雑貨を手掛けるようになったかというと、２つ理由があります。ひとつには、先代はもともと美術展に出展できるような工芸品をずっと作りたかったようなのですが、それ以外の仕事に追われてなかなか手をつけることができなかったんです。ふたつめの理由は、昔は仏壇の需要も今より多かったため、修行を積めば仏壇職人として独立することができましたが、だんだん仏壇の仕事だけでは後継者が育たなくなってきている状況がありました。そこで『もっとみんなが親しみやすいもの』『生活に根ざした工芸品』を作っていけばこの仕事の職人を目指す人も増えるのではないかという思いで、昭和60年頃から仏壇作りの技術を活かした製品開発へのチャレンジをはじめました。
当初の市場の反応はいかがでしたか？
はじめはなかなか広がらなかったですね。花小皿は今から10数年前に発売したのですが、当時は展示会や物産展に出品してもその場限りになってしまってなかなか先に繋げることができなかった。転機となったのは今から5年程前、平成17年頃にギフトショーにブース出展したことでした。その時は「ちょか」（焼酎の有名産地である鹿児島で、専用の器の呼び名）がメインだったのですが、一緒に出品した花小皿がコーディネーターの方の目に止まり、そこから東京などのお店で取扱いをしていただけるようになりました。
職人の世界では、自分が満足してしまってはダメ
仏壇作りの技を活かし新しい分野にチャレンジすることで道を開いた木原製作所。実を結ぶまでにはくり返し挑戦する気持ちを持ち続けなければならない。長い伝統を持つ職人の世界で、一人前の職人と言われるまでにはどれくらいの道のりなのだろうか？
一人前の職人になるには10年くらいかかると言われています。でも、もちろん10年経っても満足することはありません。それがこの仕事の一番難しいところでしょうか。その時は良いものができたと思っても、例えば他の人の作品を見ると、まだまだだと気づかされます。とにかくこの世界は自分が満足してしまってはダメで、常にチャレンジ精神がないと発展していかないんです。
ものづくりの世界では満足して立ち止まってしまうといつの間にか取り残されてしまう。伝統産業も残していかなければいけないことと、変わらなければならないことがある。生産の現場では常に考え、手を休めることなく挑戦を続ける職人の姿がある。
いま川辺で仏壇の金具を作っている会社は12社くらいですね。ウチの社内では職人は7人ほどおりまして、20代が2人、あとは30〜40代がほとんどです。若い20代の者は職人を目指してがんばっています。
極められた技を錫の小皿に
職人を目指す若手がいて、次に繋げようとするベテランもいる。そういった環境を作ることも自分の大切な仕事ですと控えめにおっしゃる木原さん。常に挑戦を続ける職人がひとつひとつ手仕事で仕上げる花小皿は、錫という柔らかく温かみのある金属を最大限に活かしたデザインだ。
樺この商品開発の中心となったのは、当時在籍していた作家の女性でした。実はそれまでウチでは錫を取り扱うことがなかったのですが、鹿児島では古くから薩摩錫器という伝統工芸があり、『錫山』という山もあるほどの地元を代表する素材です。おかげさまでこの花小皿は、食卓を飾る小皿としてはもちろん、アクセサリーを置いたり、上でお香を炊いたりと、お使いになる方の自由な発想で使っていただいています。錫は他の金属よりも熱伝導率が高い素材なので、例えばお刺身を花小皿に盛り、ラップをして冷蔵庫に入れておいてからお客様にお出しすると、ちょうど良い冷気を保ってくれるのでおいしくいただけます。デザートなら水ようかんも同じようにすると夏場は喜ばれますね。また、使う方のライフスタイルにあわせて自由な発想で楽しんでいただきたいですね。
木原製作所
川辺仏壇，寺社，よろいかぶと等の装飾金具のデザインから，金型製作加工，表面処理に至るまで，一貫生産体制をとる装飾用金具メーカー。近年は，仏壇金具製造技術を応用し，工芸品の開発にも力を入れ，多数の商品開発を展開。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>磨崖仏やかくれ念仏など、古来より仏教と密接な関わりあいのある鹿児島県南九州市川辺町。<span id="more-1430"></span>川辺と仏教文化の繋がりは平安時代、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落人が祖先供養のために磨崖仏を刻んだことがはじまりと伝えられ、以来 明治時代に至るまでに梵字や五輪搭・宝印搭の供養搭・仏像など全部で193体が残されている。川辺の人々の信仰心はやがて産業として地域に根づき、12世紀頃から作られた川辺仏壇は昭和50年に国の伝統的工芸品に指定された。その仏壇作りで培われてきた装飾金具の技を進化させたモノづくりをしている木原製作所の代表である木原史裕さんにお話を伺いました。</p>
<h3>仏教文化が色濃く残る川辺の町</h3>
<p>川辺町では古くから仏教文化が根付いている地域だそうですね。木原さんが子供の頃はどんな風景だったのでしょうか？</p>
<p class="comment">そうですね。川辺町は「薩摩の小京都」と呼ばれる知覧町に隣接していて、町内には清水、花園、小栗栖など京都にちなんだ地名もあります。この町には仏具の職人が多く集まっている土地柄ですから・・・ウチの両隣も仏壇屋さんですし、いつも金槌で叩いているトントンという音が響いている環境で育ちました。小学校の夏休みの工作なんかは、普通の家ではないような工具を使って宿題を作っていましたね（笑）</p>
<p>町のいたるところに仏壇に関わる工房があり、その中で育った木原さん。会社は昭和32年に創業。そこには戦後の時代背景があった。</p>
<p class="comment">当時は戦後経済復興の時期でしたので、戦没者の方のご供養もあり、仏壇の需要が増えていた時代でした。そういった背景のなかで木原製作所は創業しました。私自身は、卒業後、やはり一度は別の世界を見てみたいと思っていたこともあり別の仕事をしていましたが、28歳の頃に家業に入りました。ウチの仕事は工業製品や仏壇金具が全体の9割を占めていますので、実はインテリア雑貨は1割にも満たないんですよ。</p>
<h3>仏壇作りの技を活かした製品づくりへの挑戦</h3>
<p>川辺仏壇は、杉、松などを木地の材料とし、天然本漆塗りの後、純金箔や純金粉を使用し仕上げを施す。木地、宮殿、彫刻、金具、蒔絵、塗り、仕上げの各部門の職人たちの分業体制により製作され、小型の仏壇であることも特徴のひとつ。木原製作所では装飾金具を専門に行なっており、その技を活かしたインテリア雑貨が、今回ご紹介する錫製の花小皿だ。</p>
<p class="comment">なぜインテリア雑貨を手掛けるようになったかというと、２つ理由があります。ひとつには、先代はもともと美術展に出展できるような工芸品をずっと作りたかったようなのですが、それ以外の仕事に追われてなかなか手をつけることができなかったんです。ふたつめの理由は、昔は仏壇の需要も今より多かったため、修行を積めば仏壇職人として独立することができましたが、だんだん仏壇の仕事だけでは後継者が育たなくなってきている状況がありました。そこで『もっとみんなが親しみやすいもの』『生活に根ざした工芸品』を作っていけばこの仕事の職人を目指す人も増えるのではないかという思いで、昭和60年頃から仏壇作りの技術を活かした製品開発へのチャレンジをはじめました。</p>
<p>当初の市場の反応はいかがでしたか？</p>
<p class="comment">はじめはなかなか広がらなかったですね。花小皿は今から10数年前に発売したのですが、当時は展示会や物産展に出品してもその場限りになってしまってなかなか先に繋げることができなかった。転機となったのは今から5年程前、平成17年頃にギフトショーにブース出展したことでした。その時は「ちょか」（焼酎の有名産地である鹿児島で、専用の器の呼び名）がメインだったのですが、一緒に出品した花小皿がコーディネーターの方の目に止まり、そこから東京などのお店で取扱いをしていただけるようになりました。</p>
<h3>職人の世界では、自分が満足してしまってはダメ</h3>
<p>仏壇作りの技を活かし新しい分野にチャレンジすることで道を開いた木原製作所。実を結ぶまでにはくり返し挑戦する気持ちを持ち続けなければならない。長い伝統を持つ職人の世界で、一人前の職人と言われるまでにはどれくらいの道のりなのだろうか？</p>
<p class="comment">一人前の職人になるには10年くらいかかると言われています。でも、もちろん10年経っても満足することはありません。それがこの仕事の一番難しいところでしょうか。その時は良いものができたと思っても、例えば他の人の作品を見ると、まだまだだと気づかされます。とにかくこの世界は自分が満足してしまってはダメで、常にチャレンジ精神がないと発展していかないんです。</p>
<p>ものづくりの世界では満足して立ち止まってしまうといつの間にか取り残されてしまう。伝統産業も残していかなければいけないことと、変わらなければならないことがある。生産の現場では常に考え、手を休めることなく挑戦を続ける職人の姿がある。</p>
<p class="comment">いま川辺で仏壇の金具を作っている会社は12社くらいですね。ウチの社内では職人は7人ほどおりまして、20代が2人、あとは30〜40代がほとんどです。若い20代の者は職人を目指してがんばっています。</p>
<h3>極められた技を錫の小皿に</h3>
<p>職人を目指す若手がいて、次に繋げようとするベテランもいる。そういった環境を作ることも自分の大切な仕事ですと控えめにおっしゃる木原さん。常に挑戦を続ける職人がひとつひとつ手仕事で仕上げる花小皿は、錫という柔らかく温かみのある金属を最大限に活かしたデザインだ。</p>
<p class="comment">樺この商品開発の中心となったのは、当時在籍していた作家の女性でした。実はそれまでウチでは錫を取り扱うことがなかったのですが、鹿児島では古くから薩摩錫器という伝統工芸があり、『錫山』という山もあるほどの地元を代表する素材です。おかげさまでこの花小皿は、食卓を飾る小皿としてはもちろん、アクセサリーを置いたり、上でお香を炊いたりと、お使いになる方の自由な発想で使っていただいています。錫は他の金属よりも熱伝導率が高い素材なので、例えばお刺身を花小皿に盛り、ラップをして冷蔵庫に入れておいてからお客様にお出しすると、ちょうど良い冷気を保ってくれるのでおいしくいただけます。デザートなら水ようかんも同じようにすると夏場は喜ばれますね。また、使う方のライフスタイルにあわせて自由な発想で楽しんでいただきたいですね。</p>
<p>木原製作所<br />
川辺仏壇，寺社，よろいかぶと等の装飾金具のデザインから，金型製作加工，表面処理に至るまで，一貫生産体制をとる装飾用金具メーカー。近年は，仏壇金具製造技術を応用し，工芸品の開発にも力を入れ，多数の商品開発を展開。</p>
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		<item>
		<title>曲げわっぱ</title>
		<link>http://www.thecovernippon.jp/kurikyu_interview/</link>
		<comments>http://www.thecovernippon.jp/kurikyu_interview/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 28 Feb 2010 15:00:05 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[贈り物]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.thecovernippon.jp/kurikyu_interview/</guid>
		<description><![CDATA[お米を一番美味しく食べたいのなら炊きたてが一番。では、お弁当のご飯を美味しくいただく方法は？・・・答えは私たちの身近にある“木”にありました。呼吸をする木はご飯の余計な水分を吸収し内部を適度に調整する。するとお米の艶が出て炊きたてとはまた違う甘み・旨みが生まれる。さらには杉の木の殺菌効果で食べ物が傷みにくくなる。お弁当を作る人の愛情と自然界からの贈り物を職人技で手掛け“魔法のお弁当箱”を作る、大館曲げわっぱ「栗久」六代目 栗盛俊二さんにお話を伺いました。
一流の職人である父の姿
栗盛俊二さんは、父が樺細工職人、伯父が曲げわっぱ職人という環境で育ち、中学の時には家業を継ぐことを決意されたという。10代半ばで職人の道を選んだそのきっかけはどんなものだったのだろうか。
親父は樺細工を丁寧に作る一級の職人でした。親父の弟は曲げわっぱの職人だったんだけど、一緒に長く仕事をしていくなかで、だんだん別々に仕事をするようになっていってしまった。それで親父が樺細工と曲げわっぱの両方をやるようになったんだけど、そのふたつを両方やるというのはとても大変なことなんですよ。だから自分がその技術を覚えれば、父親が一番喜ぶだろうなと思ってこの道に進みました。
同じ秋田県の伝統工芸品である樺細工と曲げわっぱ。曲げわっぱの縫い止めには山桜の皮を用いいる。同じ土地で育まれてきた伝統工芸として、お互いは近い間柄にあるという。
大館は秋田杉など木材の集積地だったので、豊富に素材があったんだよね。秋田は雪国なので、冬になってそれぞれの仕事ができない期間に木工をやっていたんです。だから樺細工と曲げわっぱに限らず、木工の技術が育っていったんですね。
受け継がれ、進化する技
樺細工の仕上げ技を曲げわっぱに活かしているということなんですが、具体的にはどんな部分に活かされているのですか？
実は、それは親父の技なんです。曲げ物っていうのは、もともと生活道具だったこともあって粗雑な作りだったのね。例えば鉋（かんな）にかけただけでエッジがそのままギザギザしているような。それをもっと良くしていこうと、角を取ったりする曲げわっぱの仕上げ作業を取り入れたのが親父でした。
栗久さんの曲げわっぱ は、角面(かどめん)を取った手になじみやすい円錐形の作品が独特の完全なオリジナル作品。つなぎ目の美しさは他に類をみない仕上がりになっている。こういった創意工夫を重ねていることが、栗久さんの商品にファンが多い理由であり、ひいては 大館曲げわっぱの人気にも繋がっている。
ウチの親父はすごいよ。一番覚えてるのがね、中学校に入ったときに言われたことが、デザインの勉強は女性の裸を見ろ、と言われたこと（笑）日用品でもいろんな物の形・・・例えばビールグラスを見てみると、上部から下にかけてふくよかなカーブを描いているでしょ？これはなんで真っすぐではないのか。これは女性の体のラインのように少しカーブをつけているからこそ綺麗に見えるんです。
「もっと使いやすく」を追求する職人魂
■ 時に冗談を交えながらも、モノづくりの話をするときには笑顔の中に真っすぐな職人のプライドと向上心を感じる。ただ真面目に真っ正面だけから考えるだけでなく、趣味や楽しみのいろいろな角度からインスパイアされて自分のモノづくりに活かしていく頭の柔らかさが必要だと教えて頂いた。
　長い年月、曲げわっぱと向き合われている栗盛さん。その心境は年代によってどのような変化があるのだろうか。
自分は跡継ぎで家業に入ったんだけど、１年ほど経ったときに親父が脳溢血で倒れてしまいました。だから30歳くらいまではとにかく目の前にあることをこなしていくのに精一杯でまさに五里霧中だったよ。僕は26歳で結婚して、子供も生まれたから育てていかなくちゃいけない。だから必死で色々やってみるけど、なかなかうまくいかないことばかりだったなぁ。でもそういう経験から勉強して、いろんな出会いがあって、ひとつずつ形になっていった。
今は60歳すぎて子供も育て終わったから、自分の曲げわっぱをもっと使いやすくするためにはどうしたらいいか、プラスアルファの良さを加えていきたいと思ってます。
栗久さんではオリジナルの製法として、内底の隅がアールになっている。この加工がしてあることで、ご飯がすくいやすくなり、洗う時もこびりつきが少なくなって断然使いやすくなっている。これは完全にユーザーの立場になって使いやすさを追求している栗久さんの心意気そのもの。
底に厚い板を入れて、ロクロでくりぬくんだけど、そのままだと切り口の部分に木口（こぐち）が出てしまい、黒っぽくなってしまう。もちろん用途としての品質には何も変わりはないんだけど、『大館の曲げわっぱは黒くなる』って言われるのは嫌だから、リング状の木を3段重ねて接合してからくりぬくことで木口も出ずにきれいに仕上げています。僕らが作っている工芸品っていうのは生活の道具です。それは時代とともに要求も変わっていく。その要求を形に表すのが職人の仕事だと思っています。
では曲げわっぱを作る上で、一番大変なのはどんなところですか？
おひつとかお弁当とか円筒形のものはいいんだけど、すり鉢型のものを作る場合は専用の道具から自分で作らないとできません。だから一番大変なのはフルーツボウルのようなものだろうね。そのための道具はもちろん自分で作ってるよ。職人っていうのは、自分の道具を自分で作れるようにならないと職人とは言えないのよ。
これからの夢
そんな栗盛さんが将来的にやってみたいのはどんな曲げわっぱですか？
曲げわっぱは円筒形だったものから、いまは すり鉢型も作れるようになってきた。いずれそれを工夫していけば球面になるじゃない？いつか球面の曲げわっぱを作りたいね
いつでも新しい発想と時代のニーズを捉える心を忘れない栗盛さん。明るい笑顔の栗盛さんが作る曲げわっぱは、常に使う人のことを考えた秀逸の作りとデザイン性が高く評価され、経済産業省のグッドデザイン賞（なんと17回も受賞）やロングライフデザイン賞など多数受賞されている。そしてもちろん、これからも栗盛さんは夢に向かって進化を続ける。
有限会社栗久
400年に渡る伝統工芸「曲げわっぱ」。生活の道具として伝わったその技術を今に伝えたいと、現代の日常生活にぴったりの「曲げわっぱ」をつくり出し、提案し続けている。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>お米を一番美味しく食べたいのなら炊きたてが一番。では、お弁当のご飯を美味しくいただく方法は？<span id="more-1451"></span>・・・答えは私たちの身近にある“木”にありました。呼吸をする木はご飯の余計な水分を吸収し内部を適度に調整する。するとお米の艶が出て炊きたてとはまた違う甘み・旨みが生まれる。さらには杉の木の殺菌効果で食べ物が傷みにくくなる。お弁当を作る人の愛情と自然界からの贈り物を職人技で手掛け“魔法のお弁当箱”を作る、大館曲げわっぱ「栗久」六代目 栗盛俊二さんにお話を伺いました。</p>
<h3 style="font-size: 1.17em;">一流の職人である父の姿</h3>
<p>栗盛俊二さんは、父が樺細工職人、伯父が曲げわっぱ職人という環境で育ち、中学の時には家業を継ぐことを決意されたという。10代半ばで職人の道を選んだそのきっかけはどんなものだったのだろうか。</p>
<p class="comment">親父は樺細工を丁寧に作る一級の職人でした。親父の弟は曲げわっぱの職人だったんだけど、一緒に長く仕事をしていくなかで、だんだん別々に仕事をするようになっていってしまった。それで親父が樺細工と曲げわっぱの両方をやるようになったんだけど、そのふたつを両方やるというのはとても大変なことなんですよ。だから自分がその技術を覚えれば、父親が一番喜ぶだろうなと思ってこの道に進みました。</p>
<p>同じ秋田県の伝統工芸品である樺細工と曲げわっぱ。曲げわっぱの縫い止めには山桜の皮を用いいる。同じ土地で育まれてきた伝統工芸として、お互いは近い間柄にあるという。</p>
<p class="comment">大館は秋田杉など木材の集積地だったので、豊富に素材があったんだよね。秋田は雪国なので、冬になってそれぞれの仕事ができない期間に木工をやっていたんです。だから樺細工と曲げわっぱに限らず、木工の技術が育っていったんですね。</p>
<h3>受け継がれ、進化する技</h3>
<p>樺細工の仕上げ技を曲げわっぱに活かしているということなんですが、具体的にはどんな部分に活かされているのですか？</p>
<p class="comment">実は、それは親父の技なんです。曲げ物っていうのは、もともと生活道具だったこともあって粗雑な作りだったのね。例えば鉋（かんな）にかけただけでエッジがそのままギザギザしているような。それをもっと良くしていこうと、角を取ったりする曲げわっぱの仕上げ作業を取り入れたのが親父でした。</p>
<p>栗久さんの曲げわっぱ は、角面(かどめん)を取った手になじみやすい円錐形の作品が独特の完全なオリジナル作品。つなぎ目の美しさは他に類をみない仕上がりになっている。こういった創意工夫を重ねていることが、栗久さんの商品にファンが多い理由であり、ひいては 大館曲げわっぱの人気にも繋がっている。</p>
<p class="comment">ウチの親父はすごいよ。一番覚えてるのがね、中学校に入ったときに言われたことが、デザインの勉強は女性の裸を見ろ、と言われたこと（笑）日用品でもいろんな物の形・・・例えばビールグラスを見てみると、上部から下にかけてふくよかなカーブを描いているでしょ？これはなんで真っすぐではないのか。これは女性の体のラインのように少しカーブをつけているからこそ綺麗に見えるんです。</p>
<h3>「もっと使いやすく」を追求する職人魂</h3>
<p>■ 時に冗談を交えながらも、モノづくりの話をするときには笑顔の中に真っすぐな職人のプライドと向上心を感じる。ただ真面目に真っ正面だけから考えるだけでなく、趣味や楽しみのいろいろな角度からインスパイアされて自分のモノづくりに活かしていく頭の柔らかさが必要だと教えて頂いた。<br />
　長い年月、曲げわっぱと向き合われている栗盛さん。その心境は年代によってどのような変化があるのだろうか。</p>
<p class="comment">自分は跡継ぎで家業に入ったんだけど、１年ほど経ったときに親父が脳溢血で倒れてしまいました。だから30歳くらいまではとにかく目の前にあることをこなしていくのに精一杯でまさに五里霧中だったよ。僕は26歳で結婚して、子供も生まれたから育てていかなくちゃいけない。だから必死で色々やってみるけど、なかなかうまくいかないことばかりだったなぁ。でもそういう経験から勉強して、いろんな出会いがあって、ひとつずつ形になっていった。<br />
今は60歳すぎて子供も育て終わったから、自分の曲げわっぱをもっと使いやすくするためにはどうしたらいいか、プラスアルファの良さを加えていきたいと思ってます。</p>
<p>栗久さんではオリジナルの製法として、内底の隅がアールになっている。この加工がしてあることで、ご飯がすくいやすくなり、洗う時もこびりつきが少なくなって断然使いやすくなっている。これは完全にユーザーの立場になって使いやすさを追求している栗久さんの心意気そのもの。</p>
<p class="comment">底に厚い板を入れて、ロクロでくりぬくんだけど、そのままだと切り口の部分に木口（こぐち）が出てしまい、黒っぽくなってしまう。もちろん用途としての品質には何も変わりはないんだけど、『大館の曲げわっぱは黒くなる』って言われるのは嫌だから、リング状の木を3段重ねて接合してからくりぬくことで木口も出ずにきれいに仕上げています。僕らが作っている工芸品っていうのは生活の道具です。それは時代とともに要求も変わっていく。その要求を形に表すのが職人の仕事だと思っています。</p>
<p>では曲げわっぱを作る上で、一番大変なのはどんなところですか？</p>
<p class="comment">おひつとかお弁当とか円筒形のものはいいんだけど、すり鉢型のものを作る場合は専用の道具から自分で作らないとできません。だから一番大変なのはフルーツボウルのようなものだろうね。そのための道具はもちろん自分で作ってるよ。職人っていうのは、自分の道具を自分で作れるようにならないと職人とは言えないのよ。</p>
<h3>これからの夢</h3>
<p>そんな栗盛さんが将来的にやってみたいのはどんな曲げわっぱですか？</p>
<p class="comment">曲げわっぱは円筒形だったものから、いまは すり鉢型も作れるようになってきた。いずれそれを工夫していけば球面になるじゃない？いつか球面の曲げわっぱを作りたいね</p>
<p>いつでも新しい発想と時代のニーズを捉える心を忘れない栗盛さん。明るい笑顔の栗盛さんが作る曲げわっぱは、常に使う人のことを考えた秀逸の作りとデザイン性が高く評価され、経済産業省のグッドデザイン賞（なんと17回も受賞）やロングライフデザイン賞など多数受賞されている。そしてもちろん、これからも栗盛さんは夢に向かって進化を続ける。</p>
<p>有限会社栗久<br />
400年に渡る伝統工芸「曲げわっぱ」。生活の道具として伝わったその技術を今に伝えたいと、現代の日常生活にぴったりの「曲げわっぱ」をつくり出し、提案し続けている。</p>
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		<title>樺細工</title>
		<link>http://www.thecovernippon.jp/kaba_interview/</link>
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		<pubDate>Sun, 31 Jan 2010 15:00:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[お土産]]></category>

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		<description><![CDATA[桜の木の皮を使った「樺（かば）細工」は、秋田県角館町にしか伝承されていない唯一無二の伝統工芸品。

春の歓びを満開にさせて咲く桜。寒さはまだまだ厳しい立春の頃、誰もが心待ちにしている特別な存在。そんな桜の木の皮を使った「樺（かば）細工」は、秋田県角館町にしか伝承されていない唯一無二の伝統工芸品。日本はもとより、世界を見ても類を見ないという樺細工はなぜ角館にしか存在しないのだろうか？そして桜の木の皮でありながら、なぜ「樺細工」という名称なのか？そんな疑問を角館工芸協同組合の高島まち子氏に教えていただきました。
古くから城下町として整備された角館の町並み。古き良き情緒が漂う武家屋敷がもっとも美しいとされる春の季節。桜並木が一斉に春の到来を告げ、しだれ桜の桜色が武家屋敷に降りそそぎ、黒板塀に薄紅色の花々がかかる景色はまるで時代を超えてタイムスリップしたかのような錯覚まで楽しめる。そんな角館で古くから伝承されている代表的な伝統工芸品が「樺細工」。
樺細工の不思議−なぜ角館だけに？
はじめに教えて頂きたいのですが、なぜ角館にだけ樺細工が伝わってきたのでしょうか？
そもそも角館の樺細工は、江戸時代に武士の手内職としてはじまりました。歴史的に見ると樺細工としては正倉院の御物にも見受けられ、山桜の美しさは万葉集や源氏物語でも詠われています。角館は山に囲まれ、寒さに強い山桜が豊富にあったこと、また政治的にも城主の保護を受け、奨励されていたことによってその技が現代にまで受け継がれてきました。
角館では籠など日用品として生まれたという樺細工。その魅力はなんといっても自然が生み出した色彩や文様が織りなす美。つまり自然の美を職人が最大限に活かした深い味わいだろう。そんな樺細工の作り方にも歴史を感じさせてくれるポイントがあった。
樺細工のおもしろいところでもあるのですが、実は同じ茶筒を作るにしても、職人さんによって手順が違うんです。それぞれに自分のやり方があって、それは各職人によって伝承されてきたものなんです。
山桜が原料なのに、なぜ「樺細工」？
樺細工は武士の手内職だったことから、それぞれの職人で手順が異なることは、「家系」を大切にしてきた武家のしきたり、一家伝承の名残なのかもしれない。ひとくちに伝統工芸品と言っても、その伝わり方は成り立ちによってさまざまで、そういうところから歴史を推測するのも、伝統がある物にしかできない楽しみ方のひとつだ。ではもうひとつの疑問、なぜ山桜の皮を使っているのに「樺細工」と呼ぶのだろうか？
語源に関しては諸説ありますが、もともとは万葉集の山部赤人の長歌に辿ることができます。ここでは山桜を【かには（迦仁波）】と表現していますが、これがのちに【かば（樺）】に転化したものと言われています。さらに遡ると、アイヌ語で桜の木の皮のことを【カリンパ】といい、これが【かにわ】→【かば】となったのではないかと言われています。
名前の由来、成り立ちの歴史。これ以外にも日本で唯一、山桜の木の皮を使った工芸品として江戸時代中期（1781年〜1788年）から角館に伝わっているという固有の文化。樺細工が角館にのみ伝承された理由は、これら様々な要因が重なりあって生まれたものなのだろう。
昭和に入り、戦乱によって樺細工職人も少なくなってしまった時期、《民芸運動》を提唱した柳宗悦が樺細工について『日本固有のもので他国ではあまり見られない』『日本の木である桜が使われている』と賞賛し、自宅を開放して全国の職人たちに技術の講座を開きました。このとき東京の柳邸に樺細工の職人も数名招かれ、陶芸の濱田庄司氏、染紙作家の芹沢けい（金へんに圭）介氏、板画の棟方志功氏などと交流を深めました。こういった動きや職人による地道な活動で時代の波を乗り越え、昭和51年には秋田県で最初の伝統工芸品に認定されたんです。
唯一無二の伝統産業の現在
数百年の積み重ねを経て、今も多くのファンを魅了する樺細工。自然物が相手だけに原料となる皮の表情もひとつひとつ異なる。長い経験が必要とされる職人の現在の生産現場についてお聞きした。
現在、樺細工職人は120人ほどいます。以前は300人ほどいましたから少なくなってはいますね。いま中心になってやっている職人さんは50代から60代の方ですが、組合では若手の育成事業も20年ほど行なっています。ここでは5年間、師匠のところでマンツーマンで修行して卒業し、独立します
日本の文化を大切にする心
角館工芸協同組合では、原料となる山桜の植樹も行なっている。山桜の樹皮が採取できるようになるまでに約30年ほどかかるが、節度ある採取を行なうことで、木はそこから成長し、また採取することができる。自然の恩恵を大切にし、また、職人の積み重ねた手技の経験を駆使し真心を込めて作り上げたのがこの樺細工の名刺入れ。渋い風合いは使い込む程に光沢が増し、手にしっくりと馴染む心地良さは、広く内外にファンがいることにも うなずける。
樺細工の魅力は『磨くとツヤが出る』『防湿・防乾に優れている』など色々ありますが、やはり今の時代だからこそお伝えしたいのは、伝統工芸品はメンテナンスしながら長く使えるということです。例えば最近のライフスタイルでは、急須や茶筒はいらないという人も増えていると思います。しかし日本文化のなかで長年使われてきた道具には考え抜かれたフォルムや日本の風土に寄り添った使いやすさがあります。こういった道具を通して日本の生活文化を改めて大切にしていただきたいですね。
私たち日本人が大好きな桜。その花は春の短い間しか愛でることはできないけれど、樺細工の品を手元に置いておけば、いつでも桜を感じることができる。これから新生活を始めるあの人へ、桜とともに過ごす歓びを贈るのも粋なプレゼントだろう。
角館工芸協同組合
樺細工の振興と普及の為の事業を展開。特にメーカーとして製造工場を持ってオリジナル品を生産している。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>桜の木の皮を使った「樺（かば）細工」は、秋田県角館町にしか伝承されていない唯一無二の伝統工芸品。</p>
<p><span id="more-1202"></span><br />
春の歓びを満開にさせて咲く桜。寒さはまだまだ厳しい立春の頃、誰もが心待ちにしている特別な存在。そんな桜の木の皮を使った「樺（かば）細工」は、秋田県角館町にしか伝承されていない唯一無二の伝統工芸品。日本はもとより、世界を見ても類を見ないという樺細工はなぜ角館にしか存在しないのだろうか？そして桜の木の皮でありながら、なぜ「樺細工」という名称なのか？そんな疑問を角館工芸協同組合の高島まち子氏に教えていただきました。</p>
<p>古くから城下町として整備された角館の町並み。古き良き情緒が漂う武家屋敷がもっとも美しいとされる春の季節。桜並木が一斉に春の到来を告げ、しだれ桜の桜色が武家屋敷に降りそそぎ、黒板塀に薄紅色の花々がかかる景色はまるで時代を超えてタイムスリップしたかのような錯覚まで楽しめる。そんな角館で古くから伝承されている代表的な伝統工芸品が「樺細工」。</p>
<h3>樺細工の不思議−なぜ角館だけに？</h3>
<p>はじめに教えて頂きたいのですが、なぜ角館にだけ樺細工が伝わってきたのでしょうか？</p>
<p class="comment">そもそも角館の樺細工は、江戸時代に武士の手内職としてはじまりました。歴史的に見ると樺細工としては正倉院の御物にも見受けられ、山桜の美しさは万葉集や源氏物語でも詠われています。角館は山に囲まれ、寒さに強い山桜が豊富にあったこと、また政治的にも城主の保護を受け、奨励されていたことによってその技が現代にまで受け継がれてきました。</p>
<p>角館では籠など日用品として生まれたという樺細工。その魅力はなんといっても自然が生み出した色彩や文様が織りなす美。つまり自然の美を職人が最大限に活かした深い味わいだろう。そんな樺細工の作り方にも歴史を感じさせてくれるポイントがあった。</p>
<p class="comment">樺細工のおもしろいところでもあるのですが、実は同じ茶筒を作るにしても、職人さんによって手順が違うんです。それぞれに自分のやり方があって、それは各職人によって伝承されてきたものなんです。</p>
<h3>山桜が原料なのに、なぜ「樺細工」？</h3>
<p>樺細工は武士の手内職だったことから、それぞれの職人で手順が異なることは、「家系」を大切にしてきた武家のしきたり、一家伝承の名残なのかもしれない。ひとくちに伝統工芸品と言っても、その伝わり方は成り立ちによってさまざまで、そういうところから歴史を推測するのも、伝統がある物にしかできない楽しみ方のひとつだ。ではもうひとつの疑問、なぜ山桜の皮を使っているのに「樺細工」と呼ぶのだろうか？</p>
<p class="comment">語源に関しては諸説ありますが、もともとは万葉集の山部赤人の長歌に辿ることができます。ここでは山桜を【かには（迦仁波）】と表現していますが、これがのちに【かば（樺）】に転化したものと言われています。さらに遡ると、アイヌ語で桜の木の皮のことを【カリンパ】といい、これが【かにわ】→【かば】となったのではないかと言われています。</p>
<p>名前の由来、成り立ちの歴史。これ以外にも日本で唯一、山桜の木の皮を使った工芸品として江戸時代中期（1781年〜1788年）から角館に伝わっているという固有の文化。樺細工が角館にのみ伝承された理由は、これら様々な要因が重なりあって生まれたものなのだろう。</p>
<p class="comment">昭和に入り、戦乱によって樺細工職人も少なくなってしまった時期、《民芸運動》を提唱した柳宗悦が樺細工について『日本固有のもので他国ではあまり見られない』『日本の木である桜が使われている』と賞賛し、自宅を開放して全国の職人たちに技術の講座を開きました。このとき東京の柳邸に樺細工の職人も数名招かれ、陶芸の濱田庄司氏、染紙作家の芹沢けい（金へんに圭）介氏、板画の棟方志功氏などと交流を深めました。こういった動きや職人による地道な活動で時代の波を乗り越え、昭和51年には秋田県で最初の伝統工芸品に認定されたんです。</p>
<h3>唯一無二の伝統産業の現在</h3>
<p>数百年の積み重ねを経て、今も多くのファンを魅了する樺細工。自然物が相手だけに原料となる皮の表情もひとつひとつ異なる。長い経験が必要とされる職人の現在の生産現場についてお聞きした。</p>
<p class="comment">現在、樺細工職人は120人ほどいます。以前は300人ほどいましたから少なくなってはいますね。いま中心になってやっている職人さんは50代から60代の方ですが、組合では若手の育成事業も20年ほど行なっています。ここでは5年間、師匠のところでマンツーマンで修行して卒業し、独立します</p>
<h3>日本の文化を大切にする心</h3>
<p>角館工芸協同組合では、原料となる山桜の植樹も行なっている。山桜の樹皮が採取できるようになるまでに約30年ほどかかるが、節度ある採取を行なうことで、木はそこから成長し、また採取することができる。自然の恩恵を大切にし、また、職人の積み重ねた手技の経験を駆使し真心を込めて作り上げたのがこの樺細工の名刺入れ。渋い風合いは使い込む程に光沢が増し、手にしっくりと馴染む心地良さは、広く内外にファンがいることにも うなずける。</p>
<p class="comment">樺細工の魅力は『磨くとツヤが出る』『防湿・防乾に優れている』など色々ありますが、やはり今の時代だからこそお伝えしたいのは、伝統工芸品はメンテナンスしながら長く使えるということです。例えば最近のライフスタイルでは、急須や茶筒はいらないという人も増えていると思います。しかし日本文化のなかで長年使われてきた道具には考え抜かれたフォルムや日本の風土に寄り添った使いやすさがあります。こういった道具を通して日本の生活文化を改めて大切にしていただきたいですね。</p>
<p>私たち日本人が大好きな桜。その花は春の短い間しか愛でることはできないけれど、樺細工の品を手元に置いておけば、いつでも桜を感じることができる。これから新生活を始めるあの人へ、桜とともに過ごす歓びを贈るのも粋なプレゼントだろう。</p>
<p>角館工芸協同組合<br />
樺細工の振興と普及の為の事業を展開。特にメーカーとして製造工場を持ってオリジナル品を生産している。</p>
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