
オンラインマガジン-日本各地の職人を訪ね、Made in Japanのものづくりの現場をご紹介しています。


選・文:田中敦子 撮影:SAJI(EPLP)
青々とした田畑や野山が広がる道を車で走る。
陶器店が連なり、陶器市の開催でも知られる益子の中心地、城内坂の賑わいを抜ければ、あとは濃厚な緑の風景。訪れるたび、この地のやわらぎに心も体も息をつく。
益子の陶芸家・鈴木稔さんの工房は、そんな益子の自然に抱かれた奥深い場所にひっそりとある。車から降りると、草いきれが匂い立つ。敷地内には、住まい、工房、ガス窯のある収蔵庫などが建ち、周囲に木々が生い茂る。鳥のさえずりがこだまする。
鈴木さんの作品には、都内のとあるギャラリーで出合った。益子焼特有の柿色をしたオーバル型の鉢で、幾何学文様が洒落ていた。益子らしさと、らしくなさ。そのバランスの妙に心魅かれた。その柄は型を使ったものだという。器もまた、轆轤ではなく型取りしたもの。私の中では、型というのは簡便なもの、プロダクト的なもの、というイメージがあったのだが、どうも匂いが違う。今回の訪問で、その理由がわかった。
大学の陶芸サークルから始まった作陶
益子焼でまず思い浮かぶのは、民藝作家の濱田庄司の作品だろう。昭和初期に誕生した堂々と大らかで、素朴でありながら品格や知性を感じさせる作風は、江戸の末ごろから雑器をつくり続けてきた益子焼に大きな刺激を与えた。今では益子焼の古典みたいな存在になっているけれど、当時は斬新な存在だったのだ。思うに濱田は、益子に二つの種を蒔いた人。一粒は、民藝的な焼き物を根付かせた。もう一粒は、益子を作家志向のつくり手が力を発揮できる土地にした。今も、濱田同様、よそからやってきて築窯する作家が後を絶たない。鈴木さんもまた、そんな作家のひとりだ。
工房の棚には、さまざまな石膏型が並んでいる。これらで器をかたどっているのだ。焼き物といえば轆轤と思いがちだが、鈴木さんはあえて違う道を選んだ。
「濱田風の益子焼はみんなやってるでしょ。それはほかの人にまかせて、自分は益子の土を使って、違う表現をしたいという気持ちが最初からありましたね」

工房内に並んだ、作品。実用的な器が中心だが、静かな存在感があり、オブジェのような気配も。
学生時代の陶芸サークルが作陶歴のスタートである鈴木さんだが、今日に至るまで紆余曲折あった。学生時代にすでにプロ的に作品を売ることができる実力だったこともあり、就職など微塵も考える事なく陶芸家の道を選んだ。卒業後は、バイクで日本全国の窯場を巡り、24歳のとき、益子に移り住んだ。
「益子にきた当初は、益子の土や釉薬は眼中になかったんです。というのも、大きな製陶所用の量産品しか見てなかったから。でも、昔の益子焼の土や釉薬を見るとすごくいい」
そうした本来の上質な原料は、益子で暮らしていれば自然と目に入る。
「自分が気づかなかっただけで、実はとてもいい釉薬と土がある土地だということがだんだん分かってきたんです。土は工事現場なんかからも掘れるし、そういうのを片っ端からとってきて、焼いてみたら、それがすごくよかったんです」
当時の鈴木さんは、益子の陶芸教室で教えながら、製作をしていた。バブルのまっただ中で、つくれば売れる時代だったという。しかし、28歳のとき、壁に突き当たった。
「このままやっていても、一線の作家にはなれないと」
修業らしい修業もしていない。そこで、かねてより憧れていた益子の陶芸家・高内秀剛氏に弟子入りすることになる。高内氏は、作風も人柄も豪快で創意に満ち、修業の4年半は陶芸家・鈴木稔の新たな礎となる充実の時間となった。それだけに、影響も大きかった。
「独立後も、高内の弟子、ということがついてまわったし、確かに作品にもその感じがあって、あがいた時期がありました」





















































